違和感の正体

 

 

 

失くしてはいけない物を部屋で紛失するというありえない失態を犯した。へそくりが部屋にあると思うことにしたが、コンビニでお昼ごはんを買うつもりな気分に従えず家でパスタを作った。茹で上がったパスタを塩昆布とごま油で和え、昨日冷奴に合わせる為に作って余った新玉ねぎのオリーブオイル漬けと鰹節を乗せ、最後にちょっとだけマヨネーズをかける。無駄に美味しいのが逆に嫌になる。徒歩5分もかからないコンビニに行く労力より簡単にこれくらいのものができるようになって、何か満たされただろかと考えて。

 

添付する写真は見つかったから髪を切る必要はなかったが、予約をしてしまったので切りに行く。レトロゲームの話ばかりしていた。人に1番おすすめできるゲームはなんですかと問われ、たまたま行く前に見ていた実況のタイトルを答えた。厳密にはおすすめなんてしたくなく、まぁこのゲームも面白いからざっくりとした答えだから良い、とはあんまりならない。ちょっと嘘ついてしまった感がある。もう1回やりたいゲームでもちょっと嘘をついた。やっても良いが、そんな時間あったら僕はもっと本を読むだろうなと。

 

帰り際、人がゲームが好きなのは自分とは別のものになって世界を疑似体験できるところ、因果が現実より遥かに分かりやすいからだろうな。頑張ったらその分ちゃんと返って来る。レベル上げにしろ課金にしろ。現実で自分に課金してもどれだけ返って来るか分からないし。

 

さておき。

 

壺で良いのかな。だとすれば、残りの画像群は壺に入っている「あの日」のかけらたちということか。nikkiのほうは13が2回あり日々はループしているのという暗喩なのかどうなのだろう。そうしてミクシィの真偽も定かではない。まぁどっちでも良いが。違っていたら僕の利き文体と探索能力はたいしたものではないというだけ。そんなに時間かけているわけでもなく(10分くらいで当たりをつけて)、時間かけたところで全くとっかかりがなければ見つからないし。趣味がインターネットというのはなかなか本人ぽいのだが。

 

本日は午前中から問題解いていた。朝ごはんは長崎フェアで売っていたカップのちゃんぽんと、弁当で日々余る分の冷凍ご飯を解凍してゆかりご飯にした。食べないと無くならないため。土曜は平日と休日の切り替えで、日曜がちゃんと休みという感じ。普通に頭が回せて良かった。

 

ただ、失くした物を探すのに時間をかけ過ぎたのはマイナス点。残しているというよりは捨てていないから結果的に残っている言葉の残骸を掘り返し、ちょっと萎えてしまう。僕向けに送られた手紙とかも残っている。一番長く過ごした恋人さんからの手紙は直近の元恋人さんが捨ててと言ったから捨てたが、直近の元恋人さんが僕に向けて書いてくれた手紙とか。一生懸命合わせてくれたのだろうなと思うが、あの時の自分はなかなか荒れていたためあまりうまく読めなかった。

 

そうして、論文試験のために手書きする訓練をしていた用紙の裏に自分がコメントを書いているのだが、「悲惨な筆圧」とかは面白いから良い。しかし、「なんで自分にそんなに制限をかけているのだ」「自分から離れなければ」「もっと上手に生きたい」というのは生生しくていくない。

 

たぶんずっと何に対しても誰に対しても拭えてない、素朴な領域。場所がないことが苦しいのではなく、場所が無くても問題ないのが逆に生きづらいという感覚。

 

佐々木さんの小説では、自分に真っ当な感情がない(好きな人には自分の料理を振る舞いたい)ことにずれを感じ、そのずれを共有できる好きな人に引かれている。その好きな人も社会的な立場はまともだが、「自分のようないつも少しずつ間違うやつは常に緊張してずれないように生きていかないといけない」という闇があるから、「料理は愛情」を体現している正しさの権化みたいな人を好きになる。僕から見ればこの人の方がより闇が深く読めるのだが。

 

今日読んだ漫画で、女性の体を持ちながら心は男性という人が出てきた。全然メインではない、いやメインとも繋がっているのか、当たり前とか演技とか。この人は、人は自分を見てくれで判断するし、自分もそうするしかないと言っていた。女の演技をしているのだって。あと、面白いのが演技しているうちにそのままのキャラクターになってしまうというシーンがいくつかある。これって深くて、自分の人格の中で演技で獲得したものはどれくらいの領域を占めるのか。

 

「料理が愛情」の人が闇深だと思うのはこういうところで、自分が努力して作ったキャラに移入してしまっているところ。労力は何か意味ある言葉に変換されなければいけない。これは当たり前の因果だが、僕はこういうのが駄目だった。

 

ところで、mixiのプロフィールの来歴を眺めていると若干胃もたれする。自己アピールの洪水。書かれているのもだいたい類型だし、どこどこ住みでこういう肩書きで、趣味はこうですあぁです、自分のページには自分ルールがあるのでそれを守ってください。一国一城の主感が凄い。

 

日記検索は2週間しか辿れないポンコツ仕様で、読書で検索すると読書メーターが良く出てくる。僕も本の話はたくさん書いているが、純粋な感想文は書けない。感想文を読み流していると、よくもまぁ自分とは別の存在として書けるものだと思う。「バカンス」の感想文は書いてみたいからやってみたが、読んだ僕が引き直した文章みたいなものにしかならなかったと思う。劇評もそう。

 

本を読むのは娯楽ではなく自分を移動させるものだし、文章も自分が移動するもの。誰でも触れるような感想を形成するためでもないし共有するためでもない。

 

謎の人にもしかしたら読まれていることを嬉しく感じているが、そういえば、何処に書いたとしても何人かは読んでくれる人が居たなと思うと、あんまり関係ないのかもしれない。でもただ読み続けるような人はなかなかいなかったか。

 

次をどうしようかと考えているのに、全然引いてくれない。

 

この水準であれば少し外用にして酔いどれnoteでも良いし、もっと内側に寄せてミクシィでも良い。別に書くために生きている訳でもないし。

 

ホモサピエンス全史で、幸せとはなんぞやという話があった。ホルモンなのか社会的富なのかみたいな。自分の幸せは自分が決めるものという観念は割と新しい、自由主義の産物らしい。

 

セロトニンとかドーパミンみたいなホルモン的に感じられる幸福の上限と平均は遺伝子というか個体的に決まっているとか。この文脈はどんなに社会的に不幸な境遇でもレベル高い人は幸福感に浸れるし、レベル低い人は何を得ても満足度が低いらしい。

 

幸福が感情の刹那でしかないというのが仏教観で、僕はここに寄っている。感情に左右されるようなものではない。というか、僕にはこの観念は要らない。

 

1つ1つの当たり前をちゃんと自分の中で再構築しようとするとき、目的概念はどうでも良いものだとした。労力をかけたから返ってくるべきはないし、幸せのために生きている訳でもなく、ただ生きているという挙動があるだけ。感情も刹那でないものであれば、挙動から逆算する。言葉にできる感情とかではない。

 

ただ生きるために僕は自分に世界を鮮明にしていくことを課している。さっきの緊張しないと生きていけないで言えば、もっとぼんやりしまくった方が僕は世界に馴染めていたと思う。てきとーに内側と外側を分けて、あー人生しんどいなぁと思いながら真っ当な人生を過ごす。会社員に2年くらい擬態できているのだからこのままやれば良いのに。

 

で、感情を逆算してみたとき、謎の人のことはすげー好きなのだろうなと思う。僕は別に見続けることは何の苦もなくできるが、これはいつ移り変わっても良い。留められているのは、僕だけの作用ではないと思われる。僕が僕の素朴で観測して良い人なんて皆無だった。

 

ただ、個人的には僕程はこじれてないから、普通に馴染んだ方が良いのではとずっと思っている。

 

では、おやすみなさい。