再自己紹介

 

 

なんだか久々にログインしてみて色々眺めていると、ちょっと自己紹介がてらここでも1本書いてみようと思った。あ、足跡には他意はないです。日記かプロフィールを読みにいっただけ。生理現象みたいなもの。嫌なら言葉かポーズを取ってくれれば控えます。

 

簡単な物理的生態から。週休二日制のスーツを着ていく仕事をしている。以前書いていた頃より遥かに職場環境が良好。時勢ともほとんど関係ない声と頭を使うものだし、通勤も徒歩15分。自分の声帯が全然鍛えられていなかったことを今さらながら知る。何生分の発話をしているだろう。

 

ほぼ自炊派。弁当も毎日作っている。以前貼っていた弁当箱より大きくなった。外部的には趣味とか好きと評せるくらいはやっているが、個人的にはそういうのは関係ない。単に、外食とか買うより労力がかからなくなったというだけ。基本的に名前が付いている料理はほとんど作らないが和食寄りではある。本日は鶏モモ肉と玉ねぎの炒め物と、白菜を塩もみして絞った後、ごま油、塩昆布、七味で和えた浅漬けと、レタスとブロッコリースプラウトに目玉焼き(半分)を乗せたサラダ。

 

健康嗜好でもなくお酒も飲むし煙草も吸う。晩酌がてら毎日文章を書いている。文章も書きたいから書いているとも少し違う。文章を書いているのと同じように、いや、こちらの方が確実。毎日必ず本を読んでいる。これも外用には趣味とか好きだからという言葉にはなるが、個人的には癖とか習慣を越えた生理現象に近い。この違いは、意志が介在するというか意志を原動力にしないといけないかどうか。漫画も読むしアニメも見るが、活字の味は趣が違う。食欲という衝動が介在しないご飯みたいなもの。

 

ジャンルとしても以前書いていた頃よりも拡がっている。読めそうになったあらゆる書物を読む。一冊に集中するとすぐ終わってしまうから、今はだいたい30冊くらいを並行でよんでいる。繰り返し読むものもあるし、代謝していく枠もある。植物生化学は今年の桜が早くなったことを説明しているし、行動経済学統計学は人の傾向を示す。あとシェイクスピアのメタ性とか新刊枠の佐々木愛さんとか諸々あるのだが、本の話はキリがなく、自己紹介にそぐわない。数学、法学、歴史学エドガー・アラン・ポープルースト、エトセトラ。

 

知的好奇心とか向上心があるとも違う。知識は財産みたいな傾向が一般論かと思うが、知識は思考の道具であって依拠するものではない。読書メーターとかもできない。読んだら読んだ分自分としてどうなのかということになって、客観的な書物として本なぞ評価できない。

 

この辺りから精神世界へ。

 

人に同情はしないが、共感や理解はする。具体的な人のことは一生分からないと思っているが、ヒトのことは好き。ただ、緩い経験則でヒトのことを分かった気になって自分のこともあんまり分かってない人は見る分には良いとしても関わるのはよろしくない。巻き込まれてしまう。

 

このご時勢で無駄に人と関わらなくても良いし、会わなくても良いというのはここのだけの話、とても気楽。会わなければ好きではないとか会いたいから好きなのだみたいな感覚は社会心理でしかないのだなと。社会心理というは行動経済学の概念で、自分が属する社会で当たり前とされていることを自分の根拠としてしまうもの

 

あぁそうか、忘れていた。

 

僕を紹介するために外せないのが、ライフワークとしての考え事。ここまで読んだら分かるか。人は何の為に生きるのかでしっくりくる概念を探していたのだが最近、「自分が何者かを知る」というフレーズを読んで、これで良いかなと思った次第。

 

考えるにも色々の意味がある。考えるって何ですかって聞かれたとき、読んでいる人はなんと答えるのだろうというのが気になるところ。

 

僕はずっと生きている上で違和感があった。思春期が終わってもずっと付き纏われる感覚。ある程度見えるようになったのが最近で、きっと社会心理を信仰して生きている人に対する違和感だったのだろうなと。確かに、社会心理に即した振る舞いができない人はその社会から疎外されるが、別に中身までそこに依拠する必要はない。人の話を聞くのは好きだからたくさんの人の話を聞いてきたが、オリジナリティとはなんぞやとは思う。結局何かを気にしている。

 

SNSの中で人と接する方が楽だったのはこういう文脈なのだろう。ただ、アバター的人格で過ごし続けるのもきっと無理がある。使い方としてはこそっとロバの穴に人格を投げるのが普通。僕は表と裏を分けないようにしたかったしそうするようにしている。

 

デカルトの「我思う故に我あり」の「コギトエルゴスム」も良いけど、思うだけでは自分には成らない。いや、これは今よりももっと前の歴史において、人には「意識」というものがあるのだという啓発だから、当たり前に意識が認知されている現代とは違うことは加味しないといけない。

 

ただ、裏と表の一致でいうと、思考は実践してなんぼではある。実践は、物理法則を経た現実化。スピリチュアルにも特に意味を求めていないが、実践せずに頭の中でうじうじするという意味合いも「考える」の概念に含まれている。昔は良く考え過ぎだと評されていた。

 

行動できなかった選択肢についてうじうじ言語化するのはそう評されるのはたしか。単なる言い訳でしかないもんな。

 

ということで、実践してみたら案外なんとかなった「いまここ」。僕は自分の中の世界を外に表すことがとても苦手。発話とか振る舞いとか、文章なんてもっての外。料理だって続けてきたからものになっただけで、物理的な体の動きの不器用性は否めない。最初からある程度できたことなんて、あんまりない。

 

文章がここまでできるまでには10年以上かかっている。

 

 

こうやって考えていくと、言葉には空虚な単語がいっぱいあることに気付く。「幸せ」は筆頭で、自分が幸せであることはやめた。この言葉は雑過ぎる。あとは正しいとか、自分の素朴で遣えない言葉はほとんどそうだと思われる。

 

1つ1つ自分に落ち着く言葉を探している段階。

 

表現される前に人は在るはずで感情よりももっと前。

 

 

なので、僕のことはただ見に来た人と見るのが良いと思います。

 

というよく分からない自己紹介でした。