あぶりだし

 

 

 

意味不明なことばかり書いている。ただ、なんとなくずっと考えていたことが言語化されているという感じもあり。話は遅いし反応が鈍いと評されてきた義務教育時代、おそらく頭の中ではずーっとこういった違和感について想っていたのだろう。でなければ自分の中にこれほど言語がある訳がない。イベントがあろうがなかろうが関係無し。

 

世界に対する印象を自分の認識にするためには、「概念」が必要だというのがカントさんの説。この説からするとやっと僕の中に概念が出そろってきたということか。

 

さておき。

 

やはり特定の人に自分の中身を晒すのは慣れないな。巻き込み感。ぼーっと漫画を読んだり、法律システムについて考えたり夜ご飯を作ったりした。朝は家から送られてきたとろろ昆布を加えた温うどんと梅干ごはん。昼は卵かけご飯で、夜はバターを久々に買ったためきのこをレンチンしてゆかりと和えた。バターとゆかりの相性はすこぶる良い。メインは豚肉と小松菜の味噌炒め煮。たくさん飲んだ次の日は味噌を欲する。いやそれほど胃腸は荒れていないが。

 

深酒しても次の日に残らないかどうかって、楽しかったとかではなくちゃんと自分で在ったかみたいなところにあるのではという説が浮かぶ。(自分にも含めて)流されるとなかなかのダメージがある。日本酒はすげー顔がむくむ。

 

ともあれ。

 

「ミステリということ勿れ」って女性コミックだったのだな。最新刊を楽天電子書籍で買って初めて気づいた。確かに、女性偏重の傾向はなくもない。時々Twitterのそういう言い合いを見ている気分になる。まぁ表現の自由だから世界に何を求めるのも好きに主張すれば良いが。

 

面白い思ったのが、「人は育てられたように育つ」と「知らないものは見えない」というフレーズ。あとヒロイン的な女性が解離性同一性障害の副人格というのもなかなか。

 

まず、「人は育てられたように育つ」という話。漫画の中で、女性に対して乱暴な犯人Bだっけが居て、そういう風に扱われてきたのだなとヒロイン的な人が言っていた。確かに、人をどう扱うかって意識的に試行錯誤しない限り、自分がどう扱われてきたのかが前提になるよな。人を具体的な人として捉えらないのは、自分がそういう扱いをされてきたから。条件市場が成立するのはそういうことだと思われる。

 

違和感その1。僕は姉と妹の間に挟まった長男で、僕の主観を気にされて育てられた感がない。女性コミックを違和なく読めるのは、「なかよし」とか「クッキー」とか女の子向けの本を読んできたからだと思う。最初の人としてのサンプルも女性の方が多かったから女性の扱いみたいなことはなんとなく習得しているようだし、男性と接する方がやや苦手な傾向がある。おじいちゃんは僕に好意を持ってくれていたけど、おそらく家督を継ぐ能力みたいなものを重視していた。「勉強の才能はあるけど運動の才能はない」とかなかなかの呪詛ではある。まぁ女性もよく分からないのは確かで、どう接したら怒りを買わないかというくらい。えこひいきは良くない。

 

ぼーっとしながら家庭内離島をやり過ごすには自我を殺して神経使わないといけなかったのだろうなと思う。考えるどころの話ではなかったはず。あんまり勉強できると主に姉から反感買うからかどうかは知らないが、勉強とされるものはしなくなった。いや、これは僕が行った高校のやり方が良くなかったような気もするが。

 

かといって、どうして今のようになったのかはよく分からない。解放されるほど世間的には勤勉になっているし、人は属性でも傾向でもなく個人であるという見解。こういう風に育てられた覚えは全くないのだよな。別に枠で見る人はそういう風に生きれば良いと思うから、何か恨みとか反発がある訳でもない。育ちではないもともとのものなのだろうというくらいしか説明できないのだが、DNAでも文化でもないような。

 

妬みみたいな感覚がほとんど見当たらなくなった。

 

漫画で読書感想文の話があって、自分がその本を読んで考えたことを書いたら良いんだよという発言があり、良い時代になったなと思った。疑問とか考えることは学校では教わらなかったし、周囲の大人も教えてくれなかった。僕が人の文章で哲学パートに焦点が絞られるのはここ。見解は文字にされないと見えないし。

 

そうそう、「知らないことは見えない」の話。

 

個人的には当たり前すぎる話なのだが、「知っていること」だけを世界と認識している人はかなり多いように見受けられる。よくもまぁそれで世界は客観的に思えるものだ。皮肉ではなく、世界を決めることができるのはとても良き能力。だから人のことも軽々に自分の物語の登場人物にできる。要は、人ではなくキャラクター。これは自分も世界においては1キャラクターに過ぎないという諦観からきているのかもしれないが、少なくとも自分の世界において自分を決めるのは当人でしかない。別に何かしたらいいとか、有益に過ごすとかではなく、そういう前提自体を決めているのが自分だということ。

 

ちょっと脱線して。

 

ヴェニスの商人、意味が分からなくて面白い。自分が送った指輪を誰にも渡さないでって言いながら、自分じゃない人になって譲り受けた上で相手を責めるという理不尽。現代小説にはない不合理感が逆に人間の本質を捉えているような。人の行動にちゃんとした理由なんてあってないようなものだが、現代は自他に対して理由の呈示が求められる。

 

僕は他人の自分に対する挙動に意味を考えることはほとんどない。僕という主観を捉えたものではなく当人の物語の中の登場人物だとすれば、だいたい理由は推測できるし、まぁそんなだろうなと。意味が分からない時だけ考えるが、別に納得するために考えている訳でもない。どういう可能性がありうるかというだけ。

 

こういう文脈で、人を信じるかどうかという話。

 

受け入れるという意味で言えば、僕は人の言葉をまるごと受け入れる。突拍子があるかないかは問わず。根拠は求めない。ただ、存在としてどうかと言えば結局は僕にとってどう見えるかが全て。

 

なにせ、発話は繕える。虚飾できると言っても良い。だから、言葉は存在からすると間接証拠にしかならない。例えば、同期が僕をどれだけ軽視しているかなぞ、見ていれば分かる。勝手にちょっと心配になっているのも僕の中のこと。ねっとり話す後輩より、なんにも話さない後輩さんの方が僕を見ているかもしれない。

 

僕は存在と言語を一致させようと試みているから、虚飾も虚構も無いのだが、言葉を外のものとして扱っている人には一生読めないと思われる。ちなみにこう過ごしても発話では絶対無理だと思う。発話は存在の表現ではなく、疎通だもの。

 

やはり、この世界で生きだしてみて分かったが明確な異分子が居る。

はっきりさせておかねば。

 

おしまい。