無意識を意識する

 

 

 

お弁当を食べている公園を眺めているとそろそろ桜が見頃のような感じ。今週末遠出してみようかと思う心と、人が多いのは嫌だなと思う心と。最終的にはあまり人が居ないところに住むのだろうな。しかし、御苑の春の顔も見ておきたい。秋の顔は凄かったな。

 

さておき。

 

こんなに遊んでいて良いのかなと感じ。しかし、凡人は怠けてはいけない。働かざる者食うべからずみたいな意味での「働く」は個人的には怠けの領域に入る。何故怠けに入るのかというと、拘束時間で過ごすことはある意味全自動的だから。歩くのがとても早くなった。あと、音で位置関係をソナーするとか。怠けないというのは意識化であり、世界に対する感度のこと。

 

才能のこと。厳密に考えると僕に才能がないというよりは、才能という概念は排しても良いということなのかもしないな。「才能」という観念は「比較」と「所有」とセットだ。自分より相手が「才能」を持っているという観念とかどうでも良くなってきている。あと、自分が観測者というか、採点者に一方的になれるときにも、この人は才能があるからもっと認められるべきというような、自分が認めたものは世界が認めるべきものだという相対性が読める。僕にとってはそれが自分にとって美味しいかどうかであって、対価を払ったから美味しく食べなきゃならないともならないし、誰かがなんの意図もなく書いている文章も美味しいのであれば等価。でも、やっぱり古典は美味しいのが多いと思う。

 

美味しいとはなんぞやとなるとなかなか難しくなってくるが、おそらく存在の摂取。では存在とはなんぞやとなってきて、、、ちょっと置いておこう。

 

やれやれ。新刊枠とポーさんを同時に読み終えたから、昼休みにブックオフとリブロに行った。ブックオフにはコーランを探しに行ったのだが、イスラム教って日本ではあんまり需要がないのだろうな、ブックオフにもリブロにもなかった。岩波文庫で文庫本があるというのは前情報として調べていて、岩波文庫自体がある程度の大型書店に行かないとないからまぁないだろうなというくらいの感覚。週末御苑に行くならついでに買おう。

 

新刊枠。とはいえ、上橋さんの処女作も30年前の本だったこと想うと、「新刊」の概念にも随分と幅がある。まぁプルーストとかトルストイに比べれば、生きている日本人作家の本は全て新刊と言って良いかもしれない。どこぞの永沢さんの、時代の淘汰を潜り抜けた本しか読む価値がないというフレーズが想起される。グレートギャッツビーの良さは未だに良く分からないが。

 

さて、本題。

 

無意識の発見の予測はおおむね当たっていて、なんだか自分が若干気持ち悪くもある。マルクスさんが発見した無意識はイデオロギーとしての、「彼らはそれを行っている、しかし、彼らはそれを知らない」。自分が何故それを行っているかにおける無自覚をカメラとしての装置と連動させた。見えているが自覚化されていないというところからの類推かな。類推ってアナロジーで良かったっけ。

 

あと、ニーチェフロイトが出てくる。ニーチェの本は置いてあるが読まず嫌いで読んでいない。道徳にはうごうごした怨嗟(ルサンチマン)が含まれているという見解なのだのだということで、だったら読んでみようかという感じもしてくる。道徳の授業を受けていて、これはきっと誰しも思うことだろうが、なんときれいごとめいているのだろうと思っていた。ほんとにその感覚を持っていて行動しているのであればまだしも、道徳的に「善きこと」だからということに依拠しての行動はとても独善的な感じがする。ニーチェが発見した無意識は社会的無意識で、アナロジーとしての技術メディアはタイプライターらしい。これはあまり食べきれていないので2周目案件。

 

そうして、フロイトが発見したのが心理的無意識でアナロジーは電話らしい。精神分析論は読もうと思った。これは、僕が考えている本心とも割と近くて、個々の心はまず無意識の領域にあって、それが、現実に顕われることで当人にとっても意識できるようになる。フロイトさんは今でいうカウンセラーみたいな人で、具体的な治療行為を通して発見したらしい。その療法が面白くて、関係上の発話という境界を取っ払った状況で、思い付いたことを全部発話で吐き出させること。

 

これって凄く理に適っていると思った。人は対話形式で発話することを自分が話していることと思い込んでいるが、どんなに会話上手な人も、一方的に聞くので自由に自分のことを話してくださいと言われて、ちゃんと話せる人はどれだけいるだろう。自分の中だけにある言葉の発見はすなわち自分への気付きであり、世界への気付きでもある。無意識の可視化。

 

言わずもがな、僕は会話形式ではなければ言葉は無尽蔵にあるらしい。

 

会話形式ではなくとも最低限の体裁は整えられている(はず)だから、発信形式ということかも。

 

ほんと食べ合わせが良い本ばかりで美味しくて困る。世界文化史では宗教ランキングが出てきた。1位がキリスト教、2位がイスラム教、3位が無宗教、という感じで、意識無意識と宗教観の繋がりがとても面白い。宗教のもともとの語源って、縛るものということらしい。神様に監視されてながら神様が作ったルール依拠して生きることで、生きること自体に対する退屈から逃れる発明品。

 

で、無神論者は、宗教の戒律として不合理な行動を嘲笑したりするのだが、無神論者は何を信奉しているかというと、民主主義ということらしい。民主主義とは何ぞやというと、議論した上での合意という建前だが、実際はそんなことはなかなかないから、縛るものが神様ではなく公衆になったくらいの意味合いでしかないように思う。国家がなんで国民を縛る暴力を独占できるのかという文脈を神様ではなく契約にしたのが民主主義観だが、自縄自縛みたいな感はある。別にどちらが優れているとかは一概には言えない。一見不合理な戒律が人生への退屈を慰撫しているなら当人は充たされているだろうし。

 

過ごしている限り、日本の法って、不文律というか、細かいグループの中で一番の権力者の恣意的ルールが最優先されるというイメージ。

 

まぁなんにせよ、何かには依拠して生きないと生きられないということ。誰かとか何処かの国よりは自由だという観念は、もしかしたらただ植え付けられた無意識なだけかもしれない。

 

そうそう、メディアの推移で、文字から映像とか技術に推移した流れを読んでいると、僕が文字メディアに偏ってしまう意味がちょっと分かった。

 

映像とか技術のメディアって、当人は受動的というか無意識でも良い。テレビはつけっぱなしで流しっぱなしでも世界を生きている感じができる。五官が直接受容する情報だから、それを通しているだけで人生が拡張したような気分になれる。要は省エネ人生。

 

こう考えていくと、文字メディアが廃れていくのも分かる。文字を読むという行為は意識しないとできない。自覚はないだろうが、自分の中にある語彙と対象の語彙を照らし合わせないといけないという煩わしさ。今やもっと楽に捉えられるメディアがいっぱいあるし、わざわざ意識が自覚されるようなメディアは使わない。読み物を感覚メディアみたいに読んでいる人達を見るとある意味凄いなと思うが、読むことが受動的なメディアなのだろうな。

 

こういう意味で言うと、書くことも自分の無意識の文字化としての発掘なのだが、受動的に書ける人もいっぱいいる。でも、書いているということは本心に近いのだろうとも読める訳で。他にいっぱい書ける可能性の中から、あえてそれを書くことを選択したのは誰なのかという意味。

 

うわ、長くなった。

 

おやすみなさい。