存在

 

 

 

自分の内部が感情的だった。仕事に行きたくないという感覚はとても久々。たぶん席替えの件だろう。座って見ればなんてこともなかった。内部の感情が外の行動に影響するのは誤差。思いの外歩くのが遅かったから途中から早歩きしなくてはならなかったが。

 

あと、自分に対してやたらとむしゃくしゃしていた。これを言語化するとても情けないことになるが、まぁしょうがない。僕の罪。むしゃくしゃしているとはいえ、視界は狭まることはなく、行きはピンクの絨毯の広がりを観察。ちらちらと蓮華草は咲きつつある。満開になるまでの過程が美味しい。

 

仕事は、なかなかに忙しかったような気がする。あまり語るべきことはない。

 

昼休み。公園の桜が満開だ。桜には喜ばしい気持ちよりも切なさが良く似合うなと京都に行ったときも考えていたのだが、これは一般論ではなく、個人的な記録として、桜にあまり良い想い出がないからだろうなと思い至る。春は誕生季節なのに、大事だと思っていた人たちと離れてしまった季節でもある。それでも桜は綺麗だなって思うのは、一種の自虐嗜好なのかもしれない。だからか、桜の季節は色々と終わらせたくなる衝動が起こる。

 

帰り路。ビルの間に満月を見つける。光量を抑えつつ赤みを帯びていて、感情を反映しているように見える。薄雲のベールで輪郭がとても鮮明だった。感情と世界の色は相関しているのはある意味当たり前。青とゴールドのドレスの錯覚と同じように、視覚はそれほど完璧に依拠できるものではない。むしろ、自分を依拠した反映が世界の色である。視力だって深酔いとか二日酔いの時は滅茶苦茶落ちるし。

 

自分に対するむしゃくしゃを一言で述べるなら、自分のプレイに他人を巻き込むなとなる。僕のプレイは人生そのものを対象としていて、言葉でも本気で遊んでいるのだが、そんなことは相手にとってはどうでも良いこと。

 

言葉遊びに本気というのは、僕は自分が規定した語彙に自分の現実も依拠するというか、自分の現実に依拠して語彙を駆使することであり、生身の言葉である。

 

例えば、僕は関係は人と人の「間」にしかなく、当人同士の存在を持ち寄ったプラットフォームのように捉えているのだが、ある人に対しては「間」には何もなかったのではないかなと思う。当人、人間関係はそもそも存在しないという説だし、擦り合わせようがない観念だが、僕はだいぶずるをした。

 

すごくどうでも良い話を挟もう。人間観察というか、人って無意識に歩くとそうなるんだろうなという前提。まず、なるべく歩行路の真ん中を歩く。危機回避の無意識からすると当然ではある。なんにも想像しないのであれば最も合理的なルート。あと、同一方向に歩いていて、前の人を追い抜くつもりがなくてもその人のルートから外れて膨らむ。これも視界を広げることで危機回避に備える動物的感覚なのだろうなと観察される。この無意識的挙動をはた迷惑だと感じてしまうのはむしゃくしゃの副作用なのだろうなと、それだけ。意識しなくても生きられるのが1番幸せだろうし。意識は有事で観測されるだけで良さげ。

 

立ち読みした本で、教養とは自分の頭で考えることができることだというフレーズがあった。確かに、僕は馬鹿だから考え抜かないといけないのだが、自分の頭で考えることができるって、おそらく自分の感情とか素朴な価値観で受け入れられないことを言語的思考で組み立てられることであって、自分を言語で説明することができるではないのだろうな。

 

僕は自分を言葉で説明したいとは全然思わないらしい。

 

次に狙っている本は、「統計学は最強の学問だ(数学編)」

ぱらぱら立ち読みしたら、数字は、時空を超えて抽象化して思考できる対象だというフレーズがあり、こういうのに弱いのだよな。ぺらぺらの本では飽きてきた。法学も数学みたいなものだということらしいし。ただ、興味の全てではない。

 

メディア論は面白いのだが、なんか違うなと思うところもある。

 

メディアが人の拡張だという一般論はとても理解できる。技術メディアによって自分の存在が拡がっている気分は、誰もが味わっているはず。自分の視覚とか発話とかが複製して拡散されることが自分の拡がりそのものだし、電車とか車のインフラだってそうなんよな。自分の行動圏内が拡がることがすなわち自分の可動的存在が拡がる。

 

僕も昔は自分の文章が自己存在の拡張だと思っていたし、恋人さんとよなよな通話して繋がっている気分になっていた。

 

ただ、今の自分としては、メディアによって自分が拡がるという気分は嘘っぱちというか、幻想なような気がする。もちろん幻想がお金に換算できるような時代だから、うまく扱える人は扱えば良いが、メディアがあろうがなかろうが自分は自分であることは変わらない。

 

僕は文章を書かずには居られない人物だと自己認識していたが、もう少し進めると僕の中で文章メディアは間にあるものでしかなく、僕そのものとは離れている。書き続けてきてやっと気づけたというところはあるが、言葉で自分は表現し切ることができるものでもないし、ある意味ドッペルゲンガーみたいな存在でしかない。

 

発話もそうで、自分の中にある伝えたい対象は相手にとっては聞き取った対象だから、一致はない。絶対。

 

やっぱり自分で継続してみないと分からないことはいっぱいあるな。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。