すっきり

 

 

すがすがしく目覚めた体感温度上着を羽織らずに出勤する。纏う布が減るのは身軽だがなんとなく心もとない気分になる。肉が薄いから自分の物理的存在感も薄い。さすが、衣服は皮膚の拡張メディアだ。しかし、メディアとシステムと記号との違いは何なのか。調べても分からないから考えるしかない。

 

メディアとシステムは、人の認知を作り変えるという意味では良く似ているし記号もこれがあることにより、人の認識が省略できるというか、そうであると依拠できる。思い付きではなく、もっと本腰入れて考えないとな。

 

夢はこれで短編小説ができ上がるのではという面白さ。前半は主人公(完全に僕の主観とは一致しない)が住んでいる部屋に他人の気配があるという物語で、「鈍いから大丈夫かと思った」と女の子が出てくる。その女の子と主人公は接吻をするのだが、その後のせりふ回しも面白い。「鈍いと思っていたけど、なかなか」とか、「この体勢であれば私は攻め役」とか。別に官能小説には突入しない。

 

後半は、高校1年から3年間同じクラスだった、同級生が出てきた。もちろん名前はフルネームで漢字表記できる。貴き日が光る。名前で呼ぶのが気恥ずかしくて、高校1年での役職だった室長でずっと呼んでいたが。結婚式も行ったし万博の時にも遊びに行った。あんまり具体的に何を話したかは覚えていない。室長と話していたら、俺の妹と仲良くやっていたよなと言われ、はて、そんな人物居たっけとなり、いやいや、会いに行けよという流れ。もちろん、現実では彼に妹は居ないから、ここからは架空の人物の話。確かに年下の方が上手くいく傾向はあるが、別に妹属性に萌えはないはず。むしろ、まぁ良い。

 

それで、室長とセットで架空の妹さんに会いに行く。今何をやっているのだと兄が聞いたら、「ノープラン、仏教をやっている」とか宣う。夢の中での僕は何故か酔っぱらいのごとくやらかす。何か置いてあるものを倒したり、やってはいけないことをやったり。家の中に川みたいな水の流れがあって流れの先にドアがあるのだがそれは開けてはいけなかったものだったらしい。そのあと室長に、お前良い大人なのだから、まともな危機感持った方が良いよ、分かっていると思うけど、と言われ、夢の中の僕は思いのほか凹んで泣きそうになっているのだが、架空の妹さんが、この人めっちゃ堪えているよって言葉は悪くとも寄り添ってくれて、ある意味現実的感覚としてありがたやーというところで目が覚めた。

 

夢から覚めてみると、なんというか、1つの熱が醒めたという感じがした。感情は意識できる主観ではコントロールできないが、意識が働きかけることはできるのかもしれない。「好き」は誰が決めているのだろうな。

 

あと、変な感覚だが、僕の時系列の中で、接し残している人が居るのではないかということに至る。僕はあんまり他人の時間を使わせてまで接することに特に衝動がないのだが、僕とまだ接したいという想いがある人が居るのかもしれないという発想。僕を数として見てない人がまだ居るのかも、みたいな。僕は別に自分が誰かにとって価値があるとは思わないが、僕にとっては人は数ではないから、この意味で響く人は居るのかもしれない。ただ、近しい人だけ数ではないというのはまかり通らないよなという実感。人はそんなにうまく切り替えられない。

 

そうして、冒頭の現実に戻る。

 

出勤中目に入ったのは、道の端にある雨の通り道である溝に置き忘れられた何かしらのボール。物語を感じる。色あせるまで使ったのだったらなんで持って帰ってないのか、雨がふれば流れるはずだから、置き忘れたのは喫緊だ、だとすると、エトセトラ。

 

公園に墓地が併設されているのだが、ふと見たら、カラフルなお花がお供えされている。良き良きと思いつ歩きながらよくよく観測すると、どのお墓にも同じ配列のカラフルなお花が供えられていて、ちょっとぎょっとした。お墓参りに来る親族が居ますよというアピールなら少しはバリエーション増やして欲しいところだし、ほんとに来ているとしたらもっと不可思議。世にも奇妙な現実世界。

 

ピンクの絨毯の蓮華草の増殖率が半端ない。昨日と全然違う。昨日は田んぼの面積の2割くらいだったが、本日は、もう5割くらいになっている。建物の影になる部分は芳しくなくて、なんとも植物生化学。植物は動けないから、外的要因でしか変化できない。では、動物はいかに、みたいなことを考えた。

 

何か変化したという部分には敏感に反応するが、それがいつからだったのかというのは定かではない。自分の視界は自由にさせているから、勝手に目に入って来る。ここでは興味とか好意とか無関係。

 

僕は寝ている時以外ずっと考えているし、その考えた内容を言語化することも特に苦慮はない。考え事は眉間にしわを寄せてするものではない。が、別に誰かにあえて伝えたいという感情的な熱はないんだよな。

 

もう良い大人が何を言っているのだという話だが、僕は自分が素朴な自分で在ることにまだあんまり慣れていないのかもしれない。ちょっと立ち読みした本で、時間がどうのというところに、自分の精神性と行動化の一致をちゃんと把握しよう、「汝、己を知れ」というフレーズがあった。1人で稼働してみたところ、このラグはどんどんなくなっているが、まだ先がある気がする。なんであんなにしんどく生きないといけなかったのだろうのその先。

 

別に急いでもないし、ただ生きているだけなのだが、暇は増えてきている。本は読むものではなく見るものになりつつあるし。

 

言葉を書きまくっているが、ここに自分を留めている訳でもないし。

 

ともあれ。

 

メディアの話で、時計と写真の関係性がとても楽しい。時計は社会的に共時させるためのメトロノームだというのはもう実感している。時計がない世界における時間は、断続的なもので外界の変化から概算するしかなかった。満月の後には新月があるとか。共有できるメトロノーム的な時計が発明されたことによって、人にとって時間は持続されるものになる。この文脈で考えれば時間が客観的な世界の理であるというのはフィクションでしかないのだが、アインシュタイン相対性理論で科学的に説明するまで把握できないというのも面白い。いや、現代人もあんまり変わってないが。

 

僕の時間概念を挟んでみる。確かに肉体の経年劣化はどうしようもなくある。白髪が増殖している。が、肉体の経年劣化と精神を同期させるつもりもないし、単純な記憶力でも全盛期に張りたい。単純な記憶力って、記憶しようということではなく、自分が世界を知らないというところが源泉だし。あと、突き詰めた時間の観念は結局のところ単位時間における作業量みたいなイメージ。要は、時間は持続ではなく設定された物理的移り変わりの中での枠でしかない。人生という枠が最大で、あとは細々。

 

時計が時間が持続するものとした観念に対して、写真はその持続を瞬間で取り分けるものとして機能した。で、副次なのか主なのかは分からないが、記録メディアとして視線において圧倒的な証拠になる。皆で共有できる瞬間の記録。ただ、叙述ではこのメディアが生まれたことにより、証拠としてもでも記録としてでもなく、それを写した当人の精神性が描出されるようになったということだった。とても分かる。何が写っているかは社会に流通できるものだが、ここの本質は何を写そうとしたか。

 

ちょっと長くなってきたからそろそろ収める。

 

メディアにおける受け手の参与度で、テレビ、映画、文字、諸々あり、テレビはもともと解像度が低くて、想像で埋めるという余地があったらしい。もともとの活版印刷もそんな感じだとか。

 

僕が文字を媒体としているのもそんな感じなのだろうな。文章はほとんどを受け手に丸投げしてしまうものであるというのが良い。ぼくの生の存在感ととても一致している。

 

ではここまで。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。