境界線

 

 

 

同じく興味と呼ばれる衝動だとしても、子供の頃とは随分違う。子供の頃は世界はもっと狭くて、確定事項を取集していかないと生きていかれないという本能の挙動。自分が世界においてどう位置付けられるかどうかを探すこと。今は僕が捉えていた「確定事項」ですら人が創ったものでしかないという認識。別にだからといってがっかりするでもなく、むしろ人は凄いのだと考えている。当たり前のものなんて何もない。のだが、世の中には「お客様は神様」みたいな固定観念もあり、大人性も人それぞれ。

 

昼ご飯を食べていると、女子がジャングルジムの様な全くそんな遊具ではない施設(おそらく植物の蔓が育つやつ)で遊んでいる。端から見ると危ないなーという感じだが、危ないことをするのが子供である。保護者も見当たらなかった。そんなことはどうでも良いとして、距離がちかいものだから会話が聞こえてくる。「ここまでこれたらクリアね。これも修行」みたいな。僕も昔はそういうことをやっていたなぁ。今やクリアなきゲームみたいになっているが。

 

ここでふと考えたのは、ゲームのメディア性について。メディア論の中で、ゲームもメディアの1つに数えられていたこと。このマルクハーンさんのメディアの概念は多義的だから分かりにくいのだが、拡張としての機能と、影響という機能があると思われる。

 

そうして、影響の機能としてのゲームって、なかなか根深いものがあるよなと思った。今の子供はやらないだろうが、はないちもんめとか後ろのかめがーとか、まさに文化的な価値観の無意識的承継だし。別に残酷な殺し合いのゲームをすることが悪影響だっていう教育者みたいなものではない。新しいゲームは文化的にはそこまで浸透していないし、むしろ自分が気に入らないものを排除しようという人の精神性の方が子供には悪影響だと思う。そうじゃなくて、もっと素朴なゲーム。野球からサッカーに推移したという叙述で、野球は役割が完全に決まっていて、そのポジションは動かないがサッカーには流動性があるというのが文化の移行とセットで語られていて、やっぱりだいたい繋がっているのだなという感じ。

 

読んだ事項を採り入れるだけでつまらないから考えるのだが、じゃんけんというゲームは勝敗がはっきり決まるし、世で観戦されているゲームもはっきり優劣が決まる、というか決めらなくてはならない、順位制。

 

でも、これって、ほんとうに人がもともと持っている性質なのかという疑問がふと浮かぶ。そういう風に仕組まれているのでは。というのも、人類史を遡っていくと、人間同士で争っている場合ではない頃があったはずだから。自然という外界とは生死をかけた勝負をしていなきゃならないが、この極限状態で人の優劣はあまり問題にならないような気がする。まぁ劣った人は淘汰されるだけだとしても比較の観念はあまりなかったような。いやこの辺りは言葉の発明でちょっと分からないが。

 

何処かの渡辺さんが争いの観念がインストールされていると述べたのは至言で、どこかで優劣の観念が導入されたんよね、きっと。個人的には古代ローマ奴隷制あたりの時系列かと思うが、まず選民意識と優越感を芽生えさせた方が統治しやすいと気づいた為政者が居たのだろうという想像。現代が人間的に進歩しているかというとそんなことはないよな。勝敗とか優劣とか善悪の道徳観が優遇されるのって、思考が省エネになるというかほとんど何も考えずに依拠できるから。○○主義とかもそうで、専門用語を駆使したら考えているように見えるけど、自分の立ち位置が決まっているのなら、考えた言葉ではなく、説明の為の言葉でしかない。

 

争いの前提には「壁」があるような。

 

さておき。

 

執筆した劇評が公開されたとのメールがあった。添付されているURLに飛んでみたら、たくさん書いている人がいた。僕はあまり同じものを見た人がどんな文章を書いているかに興味がない模様。ちらっと眺めたが、どんな文章かより、とても読みやすいなとここを作った人の思考錯誤を想う。最初から比べると随分違う。何故興味がないのかを言語化すると、別に共感したくて書いた訳でもなく、枠の中の文章ではその人の文体としての「人となり」は分からないから。僕の文章はおそらく比べられてしまえば劇評としての完成度はきっと低いが、あんまりそんなのはどうでも良い。書く過程で完成している。

 

デフォルトの外付けの拡張メディアとしての価値観をどんどん捨て去ってみて、残った自分というは全然悪くないという感じ。共通語彙はどんどんなくなっているかもしれないが、人と話すときは相手の語彙に合わすから問題ない。この文脈で過去の自分がちょっと解明されたのだが、僕が自分を無軌道にすると、話している話題から発想された全然関係ないことを発話してしまう傾向にあった。なので、よく分からない受け答えをする人みたい評価になる。今やこの受け答えもきっとその人の確定事項でしかないのだろうなと思っているから、あんまり気にしていない。

 

 

本日はかなり元気だった。美味しいご飯(文章)を食べて、良く寝たからだと思うが、外界に対して完全無敵みたいな感じ。この文章は歴代のどの恋人さんより現実的に寄与しているのではなかろうか。怠けなくて良いし、時間も使わなくて良い。のに、エネルギーが補充される。

 

ついでに、そろそろ映画が見たいなとふと衝動した。映画がデートになりうるのは、時間を共有することに対する馴染ませなのだろうな。同じものを見たという経験でその後感想を述べあって共有したことにできる。いや、したくなったのは1人映画だが。1人カラオケもやってみるか。声帯を駆使した仕事をしている僕がどれだけ歌えるようになったのかのか確認のため。

 

という流れで、映画とテレビのメディアとしての機能の違いが面白かった。

 

曰く、映画は左脳的な文字としての視覚メディアで読解は識字率により、テレビは聴覚メディアであるとのこと。たぶん5年前の自分だったらまったく意味不明だが、今はちょっと分かる。映画が虚構であると分かるのは、虚構的な物語を収集しているからで、その収集は確かに文字情報でしかない。現実的にはありえない世界って夢みたいだ。

 

テレビが聴覚だというは、耳は現実の音しか採り入れらないから。この辺りの説明も雑だとは思うが、たしかにテレビは当たり前にある音ではあった。汚職事件をお食事券という音として認識するとか。日本人は聴覚的な民族だとアジア括りで捉えられていたが、他の人の、日本人は虫の声を生活音から切り離して聞き分けるということからもなんとなく分かる。

 

音に敏感なのは、音に充てられる言葉が多いということなのかも。他の言語の擬音語は全然知らないから想像でしかないが、その言語圏における単語って人の思想とかまで侵食するもの。

 

まぁ、今の僕はテレビなぞ見てられないし、見ていない。

全然不自由ないんだよな。ちゃんと自分だけのために時間を使っている。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。