真面目

 

 

 

何か素朴な言葉遣いがちょくちょく出ているような。「○○よね」とか「○○やって」とか、日常でもここでも全然使わないのに、素朴な語彙か。どんどん余計なものは削減されているのにどうも残ってしまう。どういう関係というか感じなのだろう。よく分からない。考えるためには情報が足りないが、入ってくる情報は「どう取っても良い」ばかりである。面白いな。

 

さておき。

 

どうしても解きたい本があったため、電車で2駅の大きめの本屋に行ったがやっぱり提供してくれない。会社法の本だったのだが、ちょっと気になっていたもので代替。定評があるだけあって、面白い。正義という漠然とした解釈基準ではなく、効率で良いよねって。もともと会社制度が資本主義的効率性のために発明されたものだろうし、相性は悪くなさそう。

 

やはり人が多い。眺めていると何かをしたいという明確な目的はなく、自分の家から離れたいくらいの意味合いで外に出ている人が多いのだろうなと感じた。別に無目的でも良いとは思うが、僕はもうそんなに漠然と生きることはできないのだろうとも思う。外から見たら何もなしてないから、むしろ漠然的人物だが。

 

ところで。

 

雑談で人を楽しめないと思っているのは、人の日常語彙は当人の中でそんなに精査されたものではないというところにある。拡張メディアの機能だが、扱い慣れていると自分のそのものではないのにそのものだと認識してしまう。まぁ外から見られとき僕の言葉は僕と認識されることに問題はないが、どうもそんなことは見られてないように見受けられる。いや、そう見る人も居るが。自分を発話で描写しようとしたら精査の過程で詰まるのが当たり前だから、するする話せる人は定型文で慣れているのだろうなという感じ。だから人と私的に話さなくなってもLINEでぽんぽん交信しなくなっても何も堪えないむしろどれだけ無駄な時間を使っていたのだという認識。

 

この交信の無駄は僕の独自論ではなく、中学時代に最初僕が1番取った後ずっと1番だった同級生が高校の時言っていた。当時はチャットアプリなぞなくガラパゴス携帯のメールだったが、メール1通に何分かかるとして、云々みたいな。僕は雑談的に垂れ流される言葉はほとんど残さないが、こういう「真面目」な発話は時系列でちょくちょく残っている。高校1年の同級生が「普通の人なんていない」って言っていたこととか。彼はその後心理学部に進んだ。心理学がその欲求に耐えうるものだったのか、どこまで学んだのかは知る由もないが、修士論文の概略は調べて読んだ。ちょっと議論してみたくもあり、でも昨日書いた友人程僕を残していないだろうなという気もする。あぁ、あんたかよく覚えてないがってなりそう。

 

本題というか、本の題。専門書の読み方ちょっと変えなければとなった喫緊。僕は割と毎日自分の頭の中がまっさらであるとして読んでしまう傾向にあるのだが、いや、有る知見と照らし合わせながら読めよと。法学界隈以外だったら普通にやれるのに、何かこじれている。これって、おそらく現実としての関係に寄せているのだろうなという感じ。会話で、立ち位置的に上の人が情報を披露しているときに、そんなの知っていますってなると場が白けるから、無知な風に振る舞わないといけない。別に相手のアイデンティティまで壊す気はないし。会話のために架空の悩み事を話題として提供するのと近いところにあるような。

 

そう、会話って自分がどうのではなく相手の地雷に引っかかるのが大変なんだよな。ここだけの話になれば地雷は踏みまくっても問題ないが。

 

本も存在だから消費できないというのはもはや擬人化だが、流通されている本は都合良く使って良いのだと言い聞かせる。ここの文章は自分の無意識の認識の更新みたいな意味合いもあるから、あえて記述をする。

 

僕にとって考えることの最大の効果は、既知に対して説明するのではなく、未知が起こった時に対処できるようになるということ。だから考えなくても良くなることなんてないと決めてしまうことで気楽になった。

 

本も認識の強化とかではなく更新のためにある。

 

メディアの法則。ある新しいメディアが生まれたとき起こる現象。①強化、②衰退、③回復、④逆転があるらしい。あんまり細かく書けないが、例えばLINEというメディアだったら①空間を離れた交流が強化され、②メールで書かないといけなかった書き言葉文化が衰退し、③なんだかんだ、集団という社会性が回復し、④実は社会的繋がりも割と脆弱だという逆転。みたいな話。

 

ちょっと数学のお勉強の話を挟む。僕は高校数学で確率は好きだったというかだいたい解けた。確率の概念って、数学の基礎的事項がいくつも前提とされているらしいが、僕はあんまり分かっていない自覚があるのになんでだろう。

サイコロを4回振って、少なくとも1回6が出る確率を求めよ。これは1回も6が出ない確率を100%=1から引くだけなのだが、概念的には分かりにくいのか。どうでも良いけどSNSだけで交信していた人(アイコンを書いてくれた)が、現実的な数学的レジ問題を出してきて、当人にどうやったら理解されるかとあくせくしたのを思い出した。数学界隈は確かに定義を理解できればするするいくのだろうが、定義すら理解できない人を置いてけぼりにしてしまう。僕もわりかし置いてけぼり勢である。直感として解けることもあるが。

 

 

某巨人ではないけど、「壁」の概念って人に根深いなというテーマ。

 

写真は壁のない美術館で、テレビ、ラジオは壁のない教室と解釈したのがマルクハーンさん。この自他(世界)の境界線という観念は、きっと最初の方にできたもの。個人的には「雨」のカタチもそうだと思っている。これあめに降られている外もあるという認識があるような。

 

壁って内と外を分けるものだし、自分が越えるべき対象という意味もある。某原始宗教では、神様は人に越えられる壁しか創ってないとかあったな。

 

 

僕は別にスピリチュアル畑ではないが、この「壁」という言葉自体が、外から設定されたものという風味があって好きではない。雑。外界はどうあれ自分がどうこなしたというシビアな現実でしかないのでは。という感じで、人は自分の努力を認めてもらいたいという衝動があるのかもしれないが、ちゃんとしようとした内心は観測できないから、結局のところは努力も現実化した現象に還元される。ここの不一致はもう当人の問題。

 

もっとまじめに考えると、やろうと思ってもできないことは、したくないことでしかないだろうし、ほんとにしないといけないと認識していないことでしかない。どうしてもできないという疾患はあるかもしれないが、日常生活送れないほどの脳の問題ならともかく。

 

これは、自戒論でしかなく。

ちゃんとしようとしている。

 

認識の更新において人は参考でしかないという話も書きたかったが、ここまで。日を跨ぐ前に終わったのは、次は早番だから。

 

おやすみなさい。