純化

 

 

 

専門書はあんまり進まなかったがちょっとどきどきしながら読めるようになっている。会社法が面白くなる日がくるとは。法律上(厳密には私法上)の「人格」は、権利義務の主体になることができる資格のようなもので、法律で物理的な人間以外に人格を認めるメリットとか、人が人を抽象的に捉えられるようになった概念の発展によるものなのだろうなと。個人事業主は商人であり中間のような存在になるのか。でも完全な私的な個人は消費者保護法の対象であり、まぁ省略。真面目に読みだすと色々考えて全然進まんが、だからこそ残るのだろう。

 

進まない代わりに放射線技師と、病理医の漫画を読んでいた。人体の物理的構造すらまだまだ分かっていないのだなぁという感じ。まぁ読んでしまったのは、それぞれのキャラが好きだからであって、別に情報収集のためではない。情報なんて後から勝手についてくる。

 

さておき。

 

ミクシィで、日記検索してさらっと10分くらいでめぼしいものを読むのだが。そこで三島由紀夫の登場人物が「輪廻」を語るのがよく分からないというような話があった。面白いのはその先で、「輪廻観」の発明に対する考察。来世があると信じさせることは、身分制とセットなのだろうなぁという感じ。

 

僕の考察の前に、昨日の「壁」の観念について、雨の中、買い出しに行くときに考えていた。この時期の雨は、花びらをたくさん落とすが、別に儚いものではなく役目を終えた花弁は早く落として次のための緑を茂らせた方が合理的なのだろうなと考えてみる。花を愛でている人は雨でぐしょぐしょになった汚らしい残骸なんて見向きもしないだろうな、とか。

 

そうして、人類史上の最初の壁ではなく、個人の最初の壁って、「皮膚」だろうなとふと考える。自分と世界を隔絶する問答無用の存在。自我というものがなければこんな絶対的孤独感は認識されないのだろうが、人間はそういう風になっている。自分の肉体と他人の肉体は別物だと本能いや、先験的な悟性かもしれない、が捉える。だから、集団化とか同一化に対するどうしようもない衝動が起こる。職場の仕事量が最も多い先輩が、誰のことを言っているのか知らないが、「依存関係」だったと言っていたが、当人が上司と雑談せずに居られないのも十分な「依存」ではないかと思う。違いは替えがきくかどうか。

 

同一化の方法として社会化とか音楽とかまぐわいがあったりするらしいが、僕はどれも馴染まなかった模様。自分が薄くなるのも人が薄くなるのもどうもよろしくないのかも。今は、絶対的孤独であって問題ない、解消の為に他人を使うことはどう言葉を繕っても嘘っぽいという見解。まぁ人脈は大事だろうが、これって主体は誰だ。

 

輪廻という発明品について。僕はここまで世界を読んできた見識として、宗教も1つの概念装置でしかないと考えている。これは常識とか民主主義とかと同じ水準で、人は自分が最も心地良くなる装置を拡張メディアとして選べばいい。誰かに押し付けない範囲で。社会的にどんなルールがあれば最適化という概念も見つかってないし。

 

輪廻は仏教っぽいが、たしか原始仏教は輪廻を提唱してなかったはず。もともと輪廻って身分制で生まれで地位と場所が決まっていることに対する人の閉塞感を慰めることに目的があったのではと推測する。よく働くようにという意味と、精神の慰撫。だから、人格そのものが来世でも再生するという観念があり、ではなんで過去世を覚えていないのだということになる。たぶん当時の人もそう思っていた人は居るだろうな。

 

ただ、僕はこの考えた方を完全に否定はしない。だって分からなないし。たとえば、今後の発見で、3次元では捉えらないエネルギーがあり、その中には脳という構造物にしか宿らない魂というか思念みたいなものがあったとして、脳が活動停止をして離れた後に次の脳に移動するということがありうるかもしれない。もちろん人格は脳というか肉体の体感を経ないと形成されないものだから都合良い輪廻とは至らないが、何かしらのエネルギーは巡る。のかもしれない。

 

そういう観念があるってことは、何か五官の外で感じるも器官があるのかもしれない。

 

ちなみに素朴な僕としては、物体ではない存在があると感じるのでどちらかと言えば後者寄り。ただ、本当に神様みたいな存在が在ったとしても、既存の概念装置で記述されるようなものではないだろうな。

 

今日はまだまだある。が時間が足りない。

 

メディアの話で、右脳、左脳の話があった。この機能の発見も歴史はとても浅いんだよな。「話しを聞かない男、地図が読めない女」が出てきた。かなり流行ったような気がするが、僕は読んでいない。傾向的にどちらがどちら優位みたいな話なのだろうという想像。

 

仕事で好きな方の上司が、貴方はアナログ人間だと評した。これって完全に右脳人間である。左脳の方がデジタル。文系がアナログで理系がデジタルだとなりそうだが、むしろ逆かもしれないなと思う。左脳脳は、システムに従順なんだよな。自分がやってないことでも信じてしまう。論理は確かに大事というか便利だが、中に何を入れるかによる。もともとは人間は右脳で世界を捉えていたが、表音文字が発展したことにより世界が分かり易くなった。

 

面白いなと思ったのが、左脳優位の人は環境の変化を捉えにくくなるというところ。僕も随分世界に対して雑な時期があった。今捉えている世界が正しいというか規定値になってしまうという弊害。こう考えていくと、地図が読めない左脳脳も当然ありうる。

 

日本語は表意文字だから良いよな。情報の外にカタチがある。

 

あと、ルビンの壺とおばあさんとお姉さんの図。よく見たら壺ではなく接吻しているとか、ぱっとみおばあさんだがお姉さんに見えるやつ。この説明で分かる人が居るのかはともかく、メディアには図と地があり、影響を受けるのは背景の地の方なのに、表音メディアの発展により人は図しか見なくなったという話。ちょっと分かり易く書けば、何が書かれているかしか人は読んでないが、本当に影響があるのはどう書かれているかというところ。余計分かりにくいか。

 

僕は人が書いた文章を無茶苦茶読んでいるが、そこに書かれている情報(図)より、なんで作者はここにこの言葉を当てたのか、当てたい理由があったのか(地)を読んでいるから、ストーリーの結末を先に知っても関係ないのである。読み味が美味しいかどうか。最近読んだ文章では、三島由紀夫さんのがなかなか。

 

あと1つだけ。

 

影響という意義。言葉では誰誰に影響を受けたって簡単に言えるから、僕はそういうのはあんまり信じない。影響を受けることができるのは、思想ではなく実践であって、実践は言語に馴染まないし。

 

ここで輪廻観を持ってくるが、他人に何か影響を与えようとするときというか、英雄譚みたいなことで一方的に伝授しようとする人は、自分と相手が「人」としていっしょくたになっている。まず、時代も違うという前提はともかく、体感としての経験則は当人が当人であるから感得できたものでしかない。容姿とか声色とか物理的な「その人」は他に代替できるものではないだろう。でも、その結晶を簡単に求めるから、これをしたらこうなれるよという法則にすがる。これは聞き手の問題かもしれない。

 

こういう抽象化は完全に左脳優位だと思うのだが、どうなんだろう。人をデジタルとして捉えている。なんなら自分さえ。

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。