拡がり

 

 

寒くて縮こまっている人も居るようだが、個人的には寒くてリカバリーが利いた。家を出て5分後財布を忘れたことに気付く。気温と時間を天秤にかけて、走って電車に乗れば間に合うなと判断し、実際間に合った。走るとすぐ汗をかくが、汗をかかないようにバランス取るのもなかなか大変だ。大人の嗜み(違

 

でもこういう思考って、たぶん論理的思考というよりはいい塩梅の直感みたいなところがある。ただ、後から言語化できるかどうか。細かい判断はもっと細かく言語化できるが最終的には体感というかブラックボックスみたいな領域になる。なにせ僕は感覚偏重のてきとー人間である。料理の味付けもてきとー。

 

さておき。

 

仕事は普通に試行錯誤を継続。やはり人と話すのはあんまり好きではないなと実感。聞くのは良いが、必要以上に自分を話す気にならない。雑談しようと思い付く言葉は僕がどうしたではなく相手はどうかとう発言だし。

 

仕事と言えば、誰かが風邪引いたかもしれないみたいな話をしていて、ふと、自分ここ2年程まったく体調不良になっていないなと。セルフ深酒で体が重いときはあるがマーライオンにはなっていないし、なんとも体調がよろしい。邪気が全然溜まってない。人は人と接してないとストレスたまるしスキンシップがセロトニンとか言うが、孤独で免疫力アップするとかもうどうしもない。というか物理的には孤独としても魂的にはそんなに孤独ではない。栄養価が高いものばかり食べている訳でもなし。むしろ、無理に食べることをやめたことが良い効果をもたらしている。この見地があの時あれば、体調不良になってまで食べんでええよって言ってあげられたのだが、なにぶん見識不足。

 

食のロスは人類全体で見れば深刻だが、個人レベルで見れば食のロスなんかより当人の体調とか健康の方が大事に決まっている。購入した時点で経済は回っているし。なんとも雑な概念を採り入れていたものだ。

 

ロスとかコストの概念も面白いよな。費用って日常用語でいえば単純にお金みたいなことになるが経済学用語でいえば、時間とか選ばなかったもの価値みたいなことを含む。経済学を読んでなかったら、もっと雑だったかもしれない。

 

今気になっている次の技術は、Excelで日常の作業を自動化するというやつ。メールとか。まぁ今のところそういうアプリを仕事では使ってないが、この先独立するようなことがあれば使えることもあるかもなと。こういう、払ったところで時間しか消費しないコストは排除した方が良い。ただ、払ったことで自分に効果が還元されるコストというものあるよなとな料理を考えた。単純な行動経済学だと、お金を払って外で食べるコストと、自分で食材買って作って洗い物して献立を考えてというコストを天秤にかければ確実に軍配が上がるだろう。

 

この前「銀の匙」を読み返していて、石窯を営業したら、「自分で作れる物を買う奴は居ねえよな」という返しがあり、このフレーズ良きだ。僕は料理に価値をあまり置いてない人物だからコストはなるべく払いたくない。ここのコストはお金だけではなく外食の味とかちょっと体調悪くなる感じとか、買いに行くこととか諸々の総合考慮である。とすればコストをかけなくしたいがために、できるようになったのかという推論がなり立つ。なるべく早く美味しく作るとか調味料の組み合わせで当たりをつけて見切りで作るとか面白いが、別に好きではないのだよな。自分が作った料理を美味しそうに食べられるのはちょっと好きかもしれない。でも、べつに押し付けるものでもない。

 

この流れでというか、むしろこちらが発端なのだが、帰りにめちゃくちゃ早歩きで帰っているとき(早く会社法を読み進めたいため)、ふと、自分って考えること好きではないのかもしれないなと思い付いたこと。考えることが好きだから考えている、すなわち常に考えるみたいな、論法にはできない。考えないと生きていないみたいな強迫観念でもないし、別に日常でも生活にもできないし。まぁ自分のポンコツ具合を解消しなければいけないというくらいの意味はあるのかもしれないなと思いつつ。

 

人の夢に文字は出てくるのかを聞いたことがないが、毎日何万文字くらいは読んでいても一向に夢に出てこないというところから、僕は文字を右脳で読んでいる節があるというという発想。だから、視覚というより味覚が近いし、けれども完全に食べている訳ではないから、第六感と呼んでも良いかもしれない。利き文体という発想もそうなんだろう。僕にとって文字、言葉、文章は特に至高ではないから、考えるという意識で出てきた言葉も量が増えるだけであって、別によく考えている訳ではない。

 

たしかに、意識下にできれば言語化(=現実化)できるから、なんかすごい考えている人みたいに見えるが、個人的には誰だってこれくらいのことは無意識下で考えていると思っている。要は、どれだけ意識しようとして施行したかどうかの違い。僕は空っぽに辿りついたから良いが、他の人はどうか分からない。

 

インターネットの心理学。匿名性の方が酔っぱらいより本性剥き出しになるよなという感じ。匿名性における言葉って、変な話架空のキャラクターの装飾品みたいな趣があるが、本性からは離れられない。図と地で言えば、どれだけ図を綺麗にしたとしても、地はどうしようもない。まぁ一過性の文章であれば現実と同じように振る舞えるだろうが。個人的には、現実における言葉とインターネットの言葉がどれだけ違うのかという感じ。当人が自分のことを言葉で語るとき、発話であることとSNSの言語であることと何が違うのか。まぁ、肉体に本質が宿るとすれば、発話の方が生の声かもしれないが、ちょっと分からなくなってきた。

 

個人的な試みとして、インターネット世界と現実世界における自分の境界線を撤去するみたいなことをずっとやっているんだろうなと思わなくもない。別に現実で発話しても良いが、そんな機会はないなというくらいであって、飾らない。まぁ具体的に母親にここが知られて、私とのLINEが苦痛なのかーってヒステリーになられたら説得に困るが、それでも良い。

 

どちらの自分もちゃんと自分の身の丈で生きているし、壁はない。僕がこちらで文章を垂れ流せるのは、口を挟まずに聞いてくれる架空の存在を読み手として、素朴な自分から出てくる言葉に任せているだけであり、そんな現実はないことは知っているし、別になくても問題ない。だって人と話すのそんなに好きじゃないし。

 

あと、匿名性の機能には本性剥き出しの攻撃性の外に、抽象的(属性的)な共通項で集団に慣れるということがあるとか。僕はこういうのも駄目だ。匿名的世界ですらコミュニティに入れない。なんでかって、何処かだけで切り取れる程自分を決められていないから。誰かと話していて、自分の中に相手との共通項があるということは出てくるから、なにやら通じていると思われるのだが、そういう人たちは僕と通じたいのではなく他人と通じていることで満足したいだけなのではないかと思われる。

 

インターネット世界も現実世界も人が構築しているという意味では同じであって、解放されるなんてことはないだろうな。

 

言語化できてない面白いことはいっぱいあって僕の人生も言葉では表現しきれないし。ほんとどれだけ書いても一部にしかならない。逆から考えれば、他人も一部しか見られない。という感じのことをプルーストさんも言っていたような。現実世界における他人の把握は自分が感得した相手の一部でしかない、みたいな。

 

どうなることやら。

 

 

おやすみなさい。