現実感の拡張

 

 

能動的土曜日。

 

ある人に追い駆けられる夢を見た。良い意味ではなく、何処に逃げてもそこに居る。同性なのだが、本当にあるかもしれなかった世界線でもあるのかもしれないというくらいには現実に近い、と少なくとも僕の心は認識しているらしい。この意味での執着はこの人だけだが、道具として扱えるというか消費できるという意味での執着は同性間の方が強いような気がしないでもない。競争の歴史。

 

ここのところ夢の方は不穏だが現実は平穏である。14時に理容院の予約があり、ついでに枕を探しに行くことにしていたのだが、天気が良かったため、シーツを選択して布団を干したことから芋づる式に部屋を片付け、シンクを磨き、汚くなったルームウェアと体を洗って出かけた。我ながらなんでこんなにちゃんとしているだと思っていたら、このご時世で必需品を装着していないことをクリーニングに出した後気付いた。急いでコンビニで買ったが、社会性の欠如が否めない。

 

寒の戻りとのことだが、太陽光の下を歩いていたらTシャツの上にパーカーを羽織っただけでも十分暖かった。道中、2000字って発話換算だったらそんなに量が多くはないだろうなぁと思ったり、自分の中の或る感情について、もう誤魔化し利かないなぁと思ったり。

 

理容院はとても賑わっている。曰く、外出があまりできないからせめて髪をさっぱりという人も多いらしい。なるほど。確かにさっぱりはする。雑談は漫画ではなく、店長さんと、血のつながりと外形上の相似みたいなテーマになった。というのも、もう一人の店員さんの弟さんが4月から入社しており、とても似ていたから。我が家は全然似ていない。姉と妹も似てないし、それぞれ母親とも似ていないし、僕も然り。いや外から見れば似ているのかもしれないが。我ながら父親の当時の写真とはちょっと似てきているような感はある。そういえば今日は姉の誕生日か。おめでとうございます。

 

理容院に向かう途中で、電気屋さんだったスーパーの3階にニトリができたようで、枕探しの旅はすぐ終わるなーと思いながら、おでこ丸出しにセットされた髪型で向かってみる。4月16日オープンとのこと。旅はまだ続く。徒歩圏内(20分くらい)の東急ハンズに向かっても良かったが、職場の最寄りのためあんまり行く気にならず、電車で2駅の無印を目的地にする。

 

店舗に着くと15人程並んでいたため、目星を付けていた同じビルの上の階にある寝具専門店にも行ってみた。ざっと見たところ、さすが専門店。軽く予算オーバーだった。引き返すと行列が収まっていたため、直感で選んで即購入。「ついで」という概念をなくす試みをしているため、本屋には寄らずに帰る。

 

ルームウェアとか枕とか生活用品を揃えているのは何故なのか。部屋着が汚れないようにエプロン買うことさえ考えているが、別に誰かと生活する予定はない。ただ、しっかりしようとする領域にここも入ってきたというだけなのか、なんなのか。自分でもよく分からない。

 

しなくてはいけないことからつい逃避してしまうという人間心理がある。作業があるのにそっちのけでしなくても良い片付けをしてしまう、みたいな。しかし、最近の流れは逃避の心理というより、自分がしたいようにして良いという心理の方が近い。お酒を飲まなくても良くなったが、これを誰かに「健康」だとか「健全」とか「偉い」とか褒められると、きっと萎えてしまう。そういうことを目的としてないわと。天邪鬼というよりめんどくさい奴である。

 

まぁお酒は日常ではなく、非日常の楽しい席のためにとっておこう。そんな予定もないが。

 

なので、本も問題なく読んだ。そういえば、本を読むことも現実からの逃避手段みたいに言われることがあるなと、メディアの話の中にサルトルの「嘔吐」が出てきたとき想った。この本は読んだことないから又書きだが、曰く、主人公は世界の真理は書物(文字)の中にあり、現実とのギャップを気持ち悪く思ってしまうとか。

 

説明として、人は想像しているイメージと現実との違いに幻滅しないようになるべく鈍感になっているのだとか。人のアイデンティティは5感によってもたらされる過剰な現実感であり、匂いとか感触はイメージには盛り込めないから、そこに溝が生まれるらしい。映画とかテレビのイメージは現実とは近いが、身体的アイデンティティの欠如があるとか。だから、肉を伴わないものは現実の外にあるものとする(ここは解釈)。

 

世界文化史で、教養とは「あってもなくても良いもの」というフレーズがあり、通じている感がある。現実的な生に無関係なものであるというアイデンティティの外にあるもの。

 

ほんとか?

 

僕は本を読みまくるが、別に本の中にだけにしか真理がないとは思わないし、本だろうが物理生活だろうが、全ては世界の構成物だから、何を抽出できるかがアイデンティティなのであって、ここからすれば肉の器も一部でしかない。一部じゃないのであれば、自分の欲求に従って肉体を害するようなことが許容されることはないはず。分析が雑くないか。

 

5感によって構築された世界観というか現実感については個人的にずっと疑問に思っていた。別に電気信号でもたらされる幻想でしかないみたいな脳科学的なものではなく、実感として。

 

唐突に恋愛遍歴みたいなものを出すと、相手と繋がったと感じるのはまぐわいではなく、手を繋いだり、軽いキスをしたり、ハグしたりすることだった。様式ばっているというものがあまり好きでないというか、本能のついでみたいな行為を純粋な行為とするのがなんとも。いや、分かり易くはあるし分かった上であれば良いのだろうが。あぁなるほど。ふと思ったが、5感で感得された世界ってほぼ受動的な自動精製されたものなのか。その世界で生きる個人の精神からすれば客観的な世界とも言える。

 

僕が言語化できずとも考えていたのは、「それだけではないだろう」という疑問だったのかもしれない。認識とか感情とか意識とか、現実には含まれないものを現実化させようとする所作とか、それを読み取ろうとする試みとか、そういったものも現実感に含んで良い。そうすると、鈍感にならなければいけないことはなく、敏感になったとしても一致できる。個人的に世界がしんどかったのは、鈍感に合わせて色んなことを紛らわせていたからのような気がしてならない。

 

誤魔化しが利かない、全く一般的な現実感と連動していない感情も、自分の現実なのだよなぁ。邪魔にならないどころか、存在しているだけでプラスになる人。マジか自分と思ったが、まぁそういうこともあるのかと諦める。

 

しかし、直接は書くまでもないことである。

 

 

そろそろ初枕のお時間。

 

なるべく平日の1時間程度はここにあてたいところ。

 

それでは。

 

おやすみなさい。良い夢を。