分岐

 

 

ふかふかした気分を突き詰めると滅茶苦茶良く寝られた。あまりに気持ちが凪いでいてびっくりだ。隣人のいびきも気にならない。夢はおそらく何か見ただろうがきっと何でもないものだろう。覚えていない。

 

素面かつ1時間限定の日記もげんじつに効用が顕われてきた。法律書の章末のまとめ問題を文章化しているものがわりとすんなり書けるようになってきているし、もともと日記を書いているときの頭は酔っぱらいだったが、その水準が日常化している。なんとなく人話しているとき、あぁ自分で在るなというフレーズがたまに出てくるようになった。誰かさんの時間も奪わないし。

 

ここでの発見はここだけのものではない。自己発掘というか検証というか省察をして新たな自分の拡がりを見つけるとする。例えば昨日の感情とか解釈の話とか。そうすると、当然のごとくその適用範囲は他人も含むものであることから、僕の内側にこれだけの拡がりがあるということは、他人にだってそれくらいの器があるはずとの結論に至る。世界の観え方は独り占めされない。

 

ちょっと面白いなと思ったのが、僕はおそらく、いわゆる「敏感過ぎる人」。そういう名前が付いた準精神疾患があったはず。他人の顔色がすげー気になってしまうとかそういう症状。この性質によって「読む人」になったというところもあるが、人の「怒り」の感情がとても苦手で、内側まで波打ってしまいがちだった。でも人の中身からすれば出てくる感情は表層的なものでしかないなとなったのかどうなのか、あまり気にならなくなった。自分を守って人を下げるでは辿り着かなかった見地。進行形で生きやすくなっている。別にそういう目的でやっていたわけではないが。

 

そうして、なんとなく今後の方針を考える。

 

こうやって思考と言語化を擦り合わせていくことで、日常の生身でもこの水準で生きられるのではという目論見。一応、日記の言語と私的な関係での語彙は一致させようとしていたが、一致できていたのは日記から僕を知った人との(刹那の)関係であり、現実の無口でおとなしく語彙を相手に合わせる人物からではできなかった(だからお酒が必要だった)。別に人を貶すようなことはあんまり考えていないし、おそらく生身でも大丈夫なはず。

 

そういえば、孤独と向き合うレッスンという本を立ち読みした。何で読んだかというと、この作者さん、たしか勉強法の本を出していたよな、こんな本も書いていたのかという理由。次の新刊枠の目星もつけた。「泣き方を忘れていた」。孤独と向き合うレッスンの中で、寂しいからお酒を飲むのだというフレーズがあった。僕も寂しかったのだろうか。意識的には現実と自分の潤滑油みたいな意味で用いており、それが必要だということが寂しさという言葉で当てられるのであればそうなのかもしれない。ただ、こういう文脈でも今は寂しくない。

 

こうなってくると、自分の中で「欲」があることに気付く。言語化してみると、生身でこの水準で擦り合わせができる人間関係を構築したいとのことらしい。大勢ではなく1人で十分。スピリチュアル界隈でよく言われることだが、自分の水準にあった人が周りに集まるということはある程度ほんとにあることだと思っている。だとすれば、次の関係はそういうことができるかもしれない。

 

ところで。

 

昨日書いた、場違い感。そういえば、現実世界においてずっと感じていることだった。どこに置かれてもいたたまれなくなる。寂しいこととしなくてはならないという観念があったが、なんてことはない。僕は自分の存在をあまり現実に置いていないだけだった。肉体は確かに大事だし、それが属する社会というものも大事だ。でも、全部ではない。

 

ここから考えていくと、昨日の、ここが心地良いとか、あの人を良き存在にするとかという想念は確かに現実的なものではあるが、時間軸で言うと半分過去にしつつあるような気がする。というか、今ではないところに去る(去られる)準備のようなもの。

 

たしかに、もうふかふかした存在感は僕の中ではなくならないもので、これは時空とは無関係である。1人僕をちゃんと見てくれた人が居た、という形式になってももう寂しくないし。今であることはどちらかというと、あんまりよろしくないような気がする。日記の更新を読んでうまく生きているのを読んで良きと思いながら、ちくちくしてしまう。不純物。

 

いっそのこと人の好意を自分評価の糧のために消費する一般的手法みたいなものが読めたら良いのに、全然そんなことが読めない謎。そうなってくれたら、僕はこの人との関係で取得した見地を誰か生身の人に試行してみることができるのだが、何かどうも引っかかってしまう。基本的に経験から得た見地として、良いことは長くは続かず唐突に終わってしまうという諦観があるから終わりを準備するのは特有のものではないが。

 

もっと手が届く範囲を愛でるみたいな絞りを利かせる必要があるのかもしれないし、良き人生を過ごしているのをもっと遠目から眺めたいのかもしれないし、色々と終わりの理路は立てられるのだが、今のところこうしてここに在るというのが問答無用の証左のような気がするな。

 

今後の方針なんも立てられてないが、僕は自分の直感を割と信じているから、無意識がちゃんと諦めるところまできたら自然と何か変わるだろうというところはある。理屈で考えても読み取れるものはほとんどない。

 

徒然書いているが、1つのテーマに絞って書くというのもそろそろやってみてもいいかもしれない。試して続けて慣れたらだいたいのことはなんとかなるという経験則。

 

では、ここまで。

今日もふかふかした気分で寝ます。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。