無私の日

 

 

ぼーっとした土曜日。

 

昨夜はゆったりお酒を飲みながら映画を見ていた。文章を書くのを継続しても良かったが、ちょっと指というか腕の筋に違和感が生じ、腱鞘炎(キーボードでなるのかは知らない)になってもいかんなと、調整日。

 

文章を書き続けることと意識の持続はちょっと似ていて、自意識があんまり好きではない自分としては徐々に馴らしていかないといけないなというのもあり。自分を甘やかすことができるのは自分しか居ない。飲んだ日は書かないと決めてしまえば、どちらを平常にするかはわかり切っているし。書くことでしかここでは存在できないから。しかし、酔うと私信を送ってしまうのもいい加減やめないと。なんか言っているわ、くらいであれば良い、のか。文章体としての存在だけ許容するということであれば、まぁ良いか。

 

さておき。

 

毎週金曜日は楽天TVで映画デーにしようかと思うくらい久々の映画は面白い。「君の名は」の次のやつという認識で良いのかは知らないが。「天気の子」。話自体はSF繋がりで分かるような分からないようなだが、情報が流れていく時間がとてもゆったりしているのだなと映画メディアの機能を想う。この人の映像はとても綺麗で、細かなところに情報が配置されている。主人公が家出して上京するのだが、お供の本が「キャッチャーインザライ」というのがなんともベタだ。全く同じ本持っているわ。

 

そうして、新宿の映像がとても現実的で昔行ったのを思い出してしまった。新宿御苑で「言の葉の庭」の巡礼をしようとしたが下調べ不足で閉園日だったこと、ぼろっちぃ満喫、新宿駅から出発する夜行バスでの別れ。何回か行っているから記録がいっしょくたになっている。古書店街にも行ったな。今度行く機会があればいくつか行ってみたいところはある。予定が被って5月には行けないが、と思うと、別に何もなくても行って良いんだよな。なんなら明日日帰りとかでも。それくらいの軽さが今はある。

 

映画に戻る。「君の名は」はでも想ったが、監督さんがなのか人一般なのか、少女性というか少女像に対する理想みたいなものを感じた。失われゆく美への憧れ。正直映画メディアの時間の緩慢さが面白かったのであって、この映画がどうのということはあまりなかったが、こういった無私の時間は無理してでも作った方が良いのかもしれないとはなった。

 

自意識があんまり好きでなかったのは、おそらく意識が捉える情報量がキャパオーバー気味だったからなのだろうなと、隠れ繊細さんの本を立ち読みして考えた。曰く、こういう人が人混みに疲れてしまうのは、歩いている人たちの軌道を無意識的に読んで避けながら歩くからだとか。確かに自分もやっている。人によって自分の軌道が変化するというのは物理的なところに限られないのだろうな。顔色とかしぐさとか、相手が意識していない相手の部分も読み取ってしまう。めんどくせぇ奴。

 

この情報量を処理できるようにキャパを拡げていくことでなんとかなりつつはあるが、別に自分を乗りこなしている感はないな。意識よりもっと情報を捉えているし、思ったよりも動けるから、乗りこなすというよりはただ乗っているみたいな感じ。切り替えは意志でやっているでもない。

 

ところで、僕の文章って興味深いのか。なかなか稀有というか奇特な人も居るものだ。流行りの物事にも言及しないし、特にオチがある訳でもない、ただ淡々と自分と世界のことが記述されているだけのものと思うのだが。書いていて我ながらこんな人物存在するのかと思うことはある。よくもわるくも。

 

そういえば、金曜日にまた1つ花の名を収集した。「クレロデンドロム」。いつも食べている公園のスケールがこじんまりした空中庭園では花がたくさん咲いていて、名札が差してある。「ボタン」の白い花が綺麗に咲いていて、そのままの視点で歩いていたら、この名前を見つけた。平常日だって普通に発見がある。

 

遡って木曜日。週末に本探しの旅に出る気にもならなかったため。「ニューロマンサー」は楽天でぽちっとした。ついでに欲しかった商法の演習書と数字で読む会社法もぽちぽち。今日届くと思っていたが、どうやら明日になるらしい。まぁ今日は本を読むコンディションでもなかったから問題ない。漫画読んだり動画見たり、日中は何も考えずに過ごした。

 

新刊枠ももうすぐ読み終わってしまう。この本3、4年前くらいに読んだ人が「意味分からない」と評していたことを覚えていて、やっと読んでいるのだが、なんというか普通に分かってしまう。オチまでもう少しだからここから急展開になるのかもしれない。

 

〇年前とか自分の中ではどうでも良くて、ただ、誰かに話したり書いたりするときの記号としてのものでしかないよな。どの時系列でも鮮明な出来事がある。

 

そろそろ寝る時間だ。

 

なんだか、生身に重きを置かないのであればそんな可能性を想う必要はなく、なんならもっと1人になってしまえば良いのではという方向性が浮かぶ。こういう想いは確かに潤いだが、潤うから乾くのであり、渇きは自分にとって良いものなのだろうかと。まぁ統御できるような感情ではないが、時空的に離れてしまえば、問答無用でカテゴリーとしての過去になる訳で。

 

茫洋たる方向性はともかく、喫緊の方向性としては、明日は時間を気にせず本に潜ってみようと考えている。BGMは歌詞が付いていないのが良いな。

 

では、コンディションを整えるために寝よう。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。