燃料

 

 

 

「リアルをリアルと認めるのだって、脳が決めたルールだからね。」

(君たちは絶滅危惧種なのか)

 

 

金曜日から。

 

入眠のタイミングも逃さず睡眠時間もばっちり。波の音はそのままに、水たまりに落ちる雨音とギターのメロディの組み合わせ。ここ何年かでもっとも万全と言える日だったのでは。そこはかとなく万能感があった。これは別に世界が思いのままみたいなことではない。いやほぼ同義だが、自分の操作がとてもうまくいく感じ。人生とは、現実を舞台に自分をどれだか稼働できるかという劇場なのだろうなとふと思った。

 

不謹慎にも都合が良い世界。このご時世への対応で1日ずつ自宅待機日ができた。僕の待機日はちょうどGWを伸ばす金曜日。仕事の日より頭使ったんねんとひそかに燃える。

 

参加しなくて良い雑談の2人組にも何か親近感というか、良いなと思うところがある。なんというか、時代に溺れていないところがある。年下の先輩は映画を見て良く泣くことを公言していて、素直で良きかな。時代に溺れていないというより若い価値観なのかもしれない。これを当然のように理解している年上の女性上司。良い関係なのかもしれないと印象を改める。

 

週1酔っぱらい映画鑑賞はなかなか楽しい。ちょっと無軌道につぶやき過ぎた感はあり。それにしても、ちゃんと洗い物して寝ている辺りちゃんとしている。

 

洋画で探したが良いものがなかった。マイノリティリポートは、あらすじを読んだ限り見たことがあったし。結局邦画で探したところ、「おと・なり」をもう1回見ようかという衝動が起こったが観てないものから選ぼうとなり、何故か「シンゴジラ」になった。

 

いやはや、とても面白かった。オタクちっくな台詞の掛け合いが続くのとか、縦割り行政とか、愛国心みたいなところとか。「天気の子」の時も思ったが、やはり、映画の見え方が随分変わった。現実世界の見え方との対応なのだろうか、映画鑑賞が趣味な人(年下の先輩とか)って、たぶん現実では真剣でいられない分を非現実世界で養っているのではないか。真剣に人を生きている人は映画の中とか劇場の中にしか居ない。ずっと真剣では居られないのが人生だろうし。という、劇メディア一般への印象。

 

どうでも良いが、今日も映画を見る衝動が起こった。しかし、週1って決めたし、と通常日のルーティンに移行した。操作性がちゃんとしている。なにやら自分も変わってきたな。先週は1日ぼんやりしていた土曜日も、半日で切り替わり本を読む。

 

真剣さの話も自己観測によっている。人はと括れるかは知らないが、真剣になるのはとても怖いことだった。真剣になってもものにならないとかそういうことではなく、真剣になることによって、鮮明になってしまうものに対して。割と真剣に生きるようになってみるとやはりそうで、過去は自分の中で過ぎ去る概念ではないし何か色々と見てとってしまう。これが嫌だったからわざと不鮮明にしていたのかもしれない。

 

真剣であることって、周りから見れば滑稽(書けないのでここで練習した。のぎへんに犬、七、日)になりうるもので、恥ずかしいもんな。笑いの哲学みたいなこととか、道化にも通じそうな概念。

 

そうして本の話。契約の概念のところを読んでいた。契約とは私法上の法律関係を発生させる合意とされる。合意は意思の合致だが、合意がなぜ法的に保護されるのかってよくよく考えるととても難しい。個人の尊重(憲法13条)に基づくもので自由主義を前提としているといっても、人は社会関係を完全に合理的に形成できる訳でもなく、不完全性な人間性を尊重するのは何故か。資本主義にとって都合が良いという面。なにはともあれそういうルールだとしておけば、取引をする参加者にとって予測がつき、予測がつくということはそれを前提に行動できるということ、ふむ。難しい。

 

美学の専門書について少し調べた。美学辞典なるものがあるらしい。めっちゃ気になる。いきの構造を読んでいて思ったが、「いき」って一種のポリシーを共有する参加者相互の営みみたいよな。こういう振る舞いをすればこういう効果がある、みたいな役割分担。流し目とか上目遣いとかのところまで読んだ。僕は媚態としての最上級は「照れ」なのではと思うが。

 

こういう思考が捗るのも、ブレーキをかける人が居ないから。人の1番のブレーキになりうる人物は当人である。

 

新刊枠の森さんのSFでリアルとバーチャルの話があった(冒頭文)。僕はこれを特に分けてないが、分けていないからといって関係に指向性があるわけでもないんだろうな。ただ、バーチャルの人物の背後には生身の人がいるし、リアルでもバーチャル以下の情報量しかない人物がいる、という至極当然の認識。人に対する感情も突き詰めれば自分の脳内で創った仮象の存在に向けられたものという話もあった。どうなんだろうな。

 

僕としては、僕に対して真剣みを感じる人に興味を持っているだけなのかもしれない。興味があるって、自分に対して有用かどうかではなく、その人がどうかだから当然当人が書いた文章は全部攫う。

 

あと、片手間の関係って、外形では分からない。外形で言えばどんな関係も自分を生きる片手間のようなもの。真剣さは近いかどうか関わりが頻繁かどうかに係わらない。

 

であれば、やっぱり直感に依るべきか。

 

はて。

 

日を跨ぐ前に布団に入ることを継続させるのが目下の自分ルール。

 

では、おやすみなさい。

 

良い夢を。