何を待つのか

 

 

引き続き変なスイッチが入りっぱなし。

内省が世界へと裏返り、言葉に対するアンテナが剥き出しになる。

 

待ちわびていた「ゴトーを待ちながら」がやってきたため一息で読んだ。なるほど、たしかに傑作と言われる訳だ、読み終わった後の世界の景色が違う。淡々とせりふ回しが続いていて場面も1つしかないのだが、かえって世界の広さが把握されるというか。ほんとはあと何回か読み込んで1本noteに記事を書きたいくらい。解釈が開かれている作品は良き。

 

そういえば、「人間らしさ」には、時間と空間を認識できるというのがあるよなと思ったが、これも言葉なんだよな。いや、言葉がなくても時間も空間もあるだろうと思うのは、もうこの言葉を知っているから。時間と空間を知るためにはその外が在ることが認識されなきゃならない。時間も空間も知らなかった小さな頃、世界への言いようもない恐怖があったはず。時間の外は「死」で、空間の外は「生活圏外」。客観的な時空を発明したのはニュートンで、それを観測できるのは神様みたいな存在者が想定されているとか。

 

ゴドーを待ちながら

 

読み終わってから媒体性の現象学でどういう文脈で書かれていたか読み返したのだが、「ただ何かが起こることを待つ」ということだった。たしかに、僕なら待つなら自分で行くわということになるな。

 

ともあれ、読んだことがない人に説明する術はないが、端的に言えば、主人公はお爺さんらしき2人組で、ゴドーさんと待ち合わせがあるからとぐだぐた待つだけで物語が終わるという、これだけではなんにも面白くない話。

 

これは読んでみないと分からないのだが、僕はこの淡々とした言い回しを読みながら所々鳥肌を立てていた。何が反応したのか言語化するはなかなか難しい。時空のねじれというか閉塞感。ベケットさんの経歴見るとうつ病の治療がどうのというのあったから、なんとなく精神性が共鳴してしまう。いや、僕は治療歴ないが、そういうところまで行ったことはある気がする。深い暗がりみたいなところ。

 

時間があべこべなのはゴドーさんの言伝を持ってきた少年が2日続けて初めてのようにやってきたり、登場人物の中で時系列を把握できているのが主人公のうち1人だけだったりするところ。空間のあべこべさは、舞台である1本の木がある場所以外のことは何一つ描写されておらず、今どの時間なのかもてきとーなところ。

 

普通に登場人物がそれぞれ存在している戯曲として読むのが正道なのかもしれないが、僕はどうも登場人物が分かれているようには読んでいない。特に主人公2人のやりとりって1人の人格が分裂しているだけのようにも見える。そりゃあベケットさんは戯曲として作ったのだし、それぞれの登場人物について語るのは当たり前だが。

 

こうして、僕の第一印象的解釈だと、これは普通の戯曲ではなく単に人の中での話なのではということになっている。なんとしてもゴドーさんを待ちたい人格(何かが起こらないと人生は始まらないという受動性)と、もう行くよって言う能動的人格。他の登場人物も何かの内部的なメタファーでしかないと考えると、ゴドーさんの言伝を持ってきた少年も先延ばししたい精神性の一部としてしっくりくる。ゴゴが、「俺が居なければお前はとっくに死んでいた」みたいなことを語るのも、生への能動的人格からのお叱りとすれば普通だ。

 

ゴトーさんは存在するのかということも、神様であっても良いし、そうでなくても良い。何かのとっかりとしては神様と呼べるものでなくても問題ないし。まぁこんな解釈きっと誰かが先にやっている。僕が考えることなぞそんなに固有なことではない。

 

不条理な話だという前提知識で読んだが、個人的には世界を開く話だった。今このタイミングで読めて良かったわ。不条理って自然なこと。若干エドガー・アラン・ポー感もあるのか。

 

僕が時間性をあまり認識できていないのは、肉体における経年劣化が今のところほとんどないからかもしれない。成長期終わってから体重がプラマイ5キロ圏内くらいしか推移していないのではないか。肉体労働していないから筋肉も最低限しかなくて、色素も薄く血管が透き通っていてある意味老人のよう。白髪が増えるのは若干嬉しい。

 

世界が開くというのは別に観念的なところだけではなく、現実的な効用もある。

 

例えば、資格試験で勉強している法律学はあくまで人が発明したルールでしかないという認識。高尚なものでもなんでもないということは、自分で理解できるし分析も分解もできるということ。日常用語に言い換えられて初めて知ったことにできる。という意味では、まじで雑い学問だと思う。だいたいの学問インテリの概念遊びみたいなところはあるのだろうが、エリート感が強い、ルールを司っているから。エリート感というのは、言語しなくても当然分かるよなという領域が広いこと。

 

そもそも、ルールとはなんぞやだが、もちろんのこと、外から決められる枠。自分ルールはあくまで外の枠の中での自発的規定だからここでは措いておく。このルールの中で、強制力をもたらして良いのはどの領域なのかを考えるのが法哲学で、強制力の後にあるのが法律学

 

やはり日記で書くには詰まらないなと思ってしまう傾向にある。確かに日常用語化してもそんなに面白くないと思われる。現実に人を裁いているのに若干ファンタジーちっくなところがあるしこれが許容されている。人の限界と言えばそれまでだが。

 

待て。であれば、面白くないものを読み込んでいる意味とは。

もう良いかって自分では思っている説。日記に書けないようなことを読んでどうする。

 

試験に行かずに東京に行くのか、あり寄りのあり。

でも、一応受かっておきたい感もある。客観価値ないし市場価値としたら、どうも自分からズレているが、このずれがきっと駄目なのだろうな。

 

僕はきっと最終的なところを物語の創出においている。

日記はあくまで僕の物語の叙述でしかないから、もっと離れたところで。

 

やれやれ。

 

自分に気付いてしまうということは困りものである。

 

何が大事で何が大事でないかには操作性ないもんな。

 

ちょっと分かったのが、人にちゃんと関わるのは境界線の外だから、お酒による越境が要る。お酒がなくなっても良くなるのは中になる。中になったのがちゃんとした他人なのかは微妙なところ。

 

言葉で表現しようとすると惑うが、ほんとはもう決めているのではという気もするな。

 

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。