波長が合うのは良きこと。

嫌われたいという願望は好かれたいと同じくらい傲慢なこと。

 

 

さておき。GWは変なスイッチが入った連休だったな。本日の朝はビックルソーダとオランジーナを飲み、ワカメおろし梅冷やしうどんを食べた。明日は納豆温玉おそしぶっかけそばを食べるつもり。もやしが悪くなりそうだったから今日食べないのにナムルを食べた。

 

ゴドーを待ちながら」をそれぞれの登場人物として読んだらどうなるのかを一瞬考えたが、それほど性格が分かるような発言あったかな、と断念。ちなみに僕は何も待ってない。人との待ち合わせでは相手がだいぶ遅れたとしてもなんとも思わなかった。最長3時間くらい待ったことあったような。気が長いというより、なんだろうな、待ち合わせには待つことが当然含まれる。あんまりズレると時間軸が違う世界で生きているだけ。

 

あえて言うなれば、さよならを待っているのかもしれない。

 

最近、悒うつぼという方の音楽をよく聞いている。言葉遊びが面白い。聞いているだけで分析をしている訳ではないが。歌詞を言葉として読むのは苦手。セットだし。そもそもよく悒という言葉もってきたなって。当然知らなかった言葉、ゆううつとうつぼとかけているのかなんなんのか。正解はどうでも良い。

 

引きずられているような気もしないでもないが、自分を引きずるような作品が美味しいんだよな。「ドグラ・マグラ」のちゃかぽことか。結局まだ最後まで読んでない。

 

ルールの話の前に美の話、の前に思い出の話か。

 

雀という単語を見て、院の時にコンビニおにぎりを食べているときに雀に米粒をあげた日記を書いたことを思い出した。近くで見ると目つきが猛禽類ちっくで怖いんだよな。感情が読み取れない。

 

当時どういう生活だったかと思い出すと、同棲中だった気がするが、たしか実家にちょうど帰っている時だったのか、ほんとこの辺りの記憶は不鮮明。レポート書いているときに寛いでいたとか、浮気された時の辺りの諸々とか、最後らへんに鳥取行った帰りに兵庫辺りでたまたま花火を見たとかシーンは覚えているのだが、この人の人格については全然読み取れなかった。なんなら読み取ろうとしなかったまである。だから駄目だったのだが、なんも分からないままただ一緒に過ごしただけだった。もっと考えれば良かったな。最初に会った時の服装は覚えている。白いワンピースだった。しかし、僕に投げてくれた会話が全然残っていない。

 

媒体性の現象学で「忘却」の概念が出てきたが、これって、忘れるためには覚えて居なきゃならなくて、覚えていることを忘れてしまうという文脈でしか起こらない。そもそも覚えていないこと、あるいは完全に消え去ったことに対しては忘れることはないし、自分がそれを体験したということも残っていない。会話は残すものではないのか。

 

でも、特に対人だが、描写できるということはある程度距離があるからなのだよな。自分でも他人でもどういう人物かって言語化できるということは、ある程度言葉で類型化できるところまで離れている。まぁ外用でしかなく、中身はもっと別のところにあるというのはありき。

 

忘却と同じように思い出すという行為は、もともとが残っていないといけない。僕はこの人をとても好きだったのだが、ほとんど残ってないんだよな。画像も想起のとっかかりにならないから消した。この時間軸の前後のことはまぁまぁ辿れるのだが。

 

美とは「関心なき満足」ということらしい。気になるとは無関係に目に入ってくるのが、それなのか。これは判断力批判で読んだフレーズだった。「関心なき」という部分は分かるが、「満足」ってなんだろうな。問答無用で満たされてしまう対象に対する感覚というのはなんとなくあるが、要は、それ以外は要らないってことか。代替性がない満足は消費にはなりえない。完結性も要素に含まれていそう。だた、この感覚が普遍的であるっていうのは言い過ぎな気もする。誰にとっても美である何かが存在するとなると信仰ちっくではないか。あくまで、ある程度一致されるとか個別的な領域とかで良いのでは。

 

でもこれでは学にならない。僕が某人の爪とか手とか鎖骨とか、いやこの話は良い。

 

ルールの話。法律(学)を素朴な認識として分析してみていた。

行為としての現象化には意志(用語では意思)が伴うというバーチャルリアリティは共通認識らしい。確かに、他の人がそうであるという信頼は大事か。

 

この事態と憲法学はなかなかセンセーショナルなのであまり書いてアレだが、法的拘束力がなくても事実上人の自由を制限させることが憲法違反になりうるかという論点はありうる。でも、語っている人は世の中がどうのっていうよりあくまで自分がどうのだからあまり面白くないのだが。

 

県を跨いで移動することが制限されるって今や大昔の封建社会の再来なのだけど、跨がなくても問題ない人には全く応えない。そういう前社会的な歴史を再来しないようにしましょうというのが憲法であって、誰か個人にとって都合の良いルールではないのだけどな。

 

家族関係の法的ルールの話。

僕は婚姻を周りが安心するくらいの契約関係としか思っていない。結婚式で一回だけスピーチした小中一緒だった知人も一瞬で離婚したし、姉にもこの拘束力は意味がなかったらしい。妹はまだ大丈夫。

 

ただ、体裁を気にする日本人気質だと、ある程度の事実上の拘束力は残っていて、他人事として大丈夫だろうと認識される。そもそもこの制度設計の目的はここにあったのではと思うくらい。母親が僕に相手が居ないのかって聞いてくるのは、僕が死ぬんじゃないかと思っているように読める。大がかりな未遂はしたことないのだが、細かい音信不通はまぁまぁやっているし。

 

ただ、この文脈におけるパートナーってなんなんだろうな。

なんだかんだいっても事実上の関係があるという安心感なのか、経済的な文脈なのか。

 

普通に公開されることが多い情報だから良いのかもしれないが、結婚を公開するのもなんだか微妙な気がしてなんとも。自分のステータスとして他人を言語化してないかということ。意図と意味が捻じ曲がる。上げても下げもややこしい。

 

この話、思いの外ややこしいのでやめたい。

 

僕はこういうのはどうでも良い。法的後ろ盾とか。

 

だからか。

 

僕は割と生きている上で、枠とか境界とかを気にするのだが、これって、あえて言語化というか現象化させないといけないことであり、素朴な僕はこれどうでも良いと思っているから、意識してないと外れてしまうのだよな。

 

倫理観とか人と自分が別物は当たり前だから良いのだが、言葉を文字通り読めないことがある。

 

現象学が言っている、「意識は何かに対する意識」はとても正しい。自分が独立して存在しているという意識は、何かに対する意識を抑圧した結果なのだろうと。

 

でも、別にそういう人を悪いとは言わない。知ったことではないし。

 

 

ともあれ、好きだった人達は全員結婚していれば良いと思う。幸せの定義の話だが、おそらく、人を自分の人生の文脈に巻き込むことだから。自分の人生が巻き込まれると表裏。

 

僕は誰にも巻き込まれなくないし、巻き込みたくもない。それでも一緒に居られる人を待っているのかもしれないが、僕の文章を長く読むような人はだいたいちゃんとしていない人であるという経験則があるから、こういう探し方だと一生出逢わないんだよな。

 

 

長々書いてしまったが、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。