強いずに勉める

 

 

 

なかなかはしゃいだ連休であった。早く起きることだけはしていたから仕事に移行することは問題ないはず。今日も4時半くらいに起きて8時くらいに冷やしおろし納豆そばを食べた。飲み物はポカリとビックルソーダ。なんだかある程度深酒してもあんまり長いこと寝られないみたい。

 

昼寝を1時間ほどしたとき、若かりし頃の亡父親と母親が出てきた。剣呑な雰囲気であまり良い夢とは言えない。いつ頃まで仲良かったのだっけ。小学校低学年の頃までは毎年家族旅行のイベントがあり、中学校くらいから酷くなったのだっけ。あぁ僕の婚姻制度への不信感と客観的安定感への信頼はここにあるのかも。もうちょっと生きていたら別れていたのかもしれないが。ちょっとした理想を1垂らししてしまうのもこの辺りにあるのか。女性の本性など姉と妹を見ているしある程度の類型的経験則はあるのに。理想というのは、仮面の付け替えが不要な裏表がない人がえぇなというところ。

 

さておき。

 

僕の文章って勉強になるのか。はて。滅裂なことを書いてもなんとなく思索パートで誤魔化されているのか。なんなら、もっと教養的なこと書くべき? かつてリベラルアーツと言われていた科目が気になるところ。音楽が数学系に入っているとかなかなか。文法・論理・修辞と、算術・幾何・天文・音楽だそうな。なんで学ぶべきだったのだろうなと考えると、上流階級の社交界がイメージされるが。

 

しばらく私信も収めるのだが、ふと、話題の提供がなくてもネタが尽きないというはちょっと気持ち悪いなと思った。まぁアウトプットのためにはインプットが必要で都度自分に修正がかかるから、言葉での規定は暫定でしかないところからすると僕の中では当たり前だが、常に無駄にインプットとアウトプットをしているような人はあまり居ない。

 

「いきの構造学」は模様・色彩が終わり、建築のところになった。平行線が「いき」だとのことで、眼球の位置・運動に依存しているというのは面白い。内部と外部の一致というか調和。建築が壁と床を材料で分けることみたいなのも部屋(空間)という概念との調和っぽい。美学史と現象学は未消化。現象学の「意識は常に何かに対する意識である」ということは頭の片隅にいつもある。自意識も掘り下げて見れば「かつて何かに対する意識たったもの」の集積なのかなと。

 

消防士の異能力バトルみたいな漫画を読んだのだが、世界観が面白い。住んでいる現実とは別の世界から来るエネルギーみたいな。

 

ごろごろしていて日中にはあんまり本は読めていない。こういうぼーっとしたときに内部が捗っているような気もする。納得するために考えるのではなく、なんでそうなのかを考える。もしくは「感じ」の言語化。だから、結果的に何かが見つかったとしてそれが正しいかどうかは問題にならない。

 

お勉強の話でも書いておくか。ルールも従わなきゃならないものと考えるとただの義務だが、なんでそういうルールになっているのかを考えると面白い。割と解釈に直結するとい意味ではこの世界の中では実用性もある。憲法は哲学領域ととても近い。あとは政治学も。表現の自由とこのご時世とかどうなのだろうな。拘束力の程度がどこまでいけば憲法違反になるのか。表現の自由はある公共空間で表現をする自由も含んでいるし、それにこの事態が優越するのかとなるとなかなか。まぁ裁判所の判断は裁判にならないと明らかにならないが、立法政策的には意味がある天秤。

 

(開催されると良いな)

 

他も書こうと思ったが、やっぱり有事にならないと問題にならないから平時のルールを記述するのは難しい。民法の条文も当たり前のことは書かないみたいなところがあり、定義付けられていない言葉がいっぱいある。その点会社法は比較的新しいため割と定義してくれていることが多い。

 

やっぱり面白くないな。これ自体が好きな人には良いのかもしれないが、生活のルールを規定しながら用語が日常生活と離れているというも良く分からないところ。素朴に考えると頓珍漢なことになる。

 

書き始めるのも遅くなったため日を跨いでしまった。

 

さて、どうしても思考が他人事的になるのは、言葉で考えることは真理にはある程度届くかもしれないが、自分とは随分離れているではと感じるから。素朴な自分はだいたいのことをどうでも良いとしながら、ある程度自己の見解は構築しているとしても、別に言葉にするものでもないと感じている。これが何故だろうというと、無価値性の天秤もあるだろうし、通じたところで何か意味があるのかというところもある。だったら、公開しなくても中の無知の人に教えるように言語化して考えたら良いだけともいえる。

 

存在としては現象化される訳だから、意味があるとすればそこだけよな。意味やルールが問題になるのは外と接するときだけ。

 

何か暗がりっぽくなったが、それほどでもない。内省して熱があるところに触れることはほとんどないだろうし。いちおう全方面的に真剣に考える質であるというは、あるいは熱量と呼べるものなのかもしれない。あと、万事が他人事であるということは、自分が悪夢を見ても他人には良い夢を祈ることができること。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。