浄化作用

 

 

 

言葉に実体が追い付くのはありうることだから、不一致はあまり気にしなくても良いのかもしれない。しかし、ここにおいて実体とは何を指すのか。と、名誉毀損罪では虚名も保護されるのだよなと、隙間を見つけて復習。

 

何か、変な夢を見た。僕は営業マン風のスーツを来ていてどこかの家に居る。床にお爺さんの顔に見える跡があり、当人が薄っすらと出てきて、「いや、そんな未練もないんだよ」みたいなことを言っていた。その後、家を出て歩いている。立地が高台にあり、下の遠くの方から、それらしいお婆さんが歩いてくる。見つからないようにこそこそ逃げたが、見つかり「教会の方ですか」と迫られる。「いや教会ではないのです」と答えたが、「後で待ってますから」と強めに言われ、また逃げて、目が覚める。

 

覚めて、幼少期それらしいお婆さんを1度だけ見たことがあるなと思い出した。お墓を走って通り過ぎたときお婆さんらしき像が横目に見えたが、通り過ぎたあと振り返ると居なかったというやつ。僕の記憶なぞ当てにならないからそうではないだろうと思っていて、ずっと忘れていた。

 

ついでに、金縛りにはよく遭っていたな。天狗らしき像を見たりベッドの周りを誰かが歩いたりしたり、その他もろもろだが、半覚醒の頭は色々認識を間違うものだと思っているから気にしていない。当時は怖かったが。そういえば、遭遇しなくなったのは割と最近かもしれない。強迫観念の現実化だったのかな。知らんけど。幽霊よりも怖いものはたくさんある。

 

さておき。

 

久々の仕事日だったが、なんとなく調子がよろしくなかった。切り替えがうまくいかなったからなのかなんなのか。人の言葉は物理力があるよなという感じ。顧客の言葉は別に良いのだが、内の方。

 

年下の先輩と雑談していたとき、「ここ2年、楽しいことが1つもない」と言っていた。宣言が延びて映画が見られなくなったことに対する誇大表現だろうし、別に良いのだが、これに対して「ほんとか?」とか「いや、僕は毎日割と楽しいです」というのは空気読めてない奴だから困る。

 

お昼に空中庭園に向かうとき、舗装された遊歩道とは別に土が剥き出しの小さな丘があって、そこを通るとショートカットができる。よく通っているのだが、草がぼーぼーになりつつあり、歩くのが難しくなってきたのを楽しいなと思うし、シロツメ草やタンポポを避けながら歩くのも良い。空中庭園の方では赤いボタンが元気に咲いていて良いなと思いつ、鉢に植えられていた白いボタンがどこかに行ったのが若干寂しい。鉢の中にはレモンがあって、花を初めて見た。印象としては「ピロピロしている」という感じ。

 

ネガな言葉を書くのは減ってきたのかな。自分が途方もなく駄目な奴だという言葉が頭に浮かんだが、こういう言葉は外に向かえば消極性になるが、内に向かえば開拓性になる。駄目という認知があるから修正ができる(できないこともあるかもしれない)。使ったとしても共感を求めるようには書いてない(はずだ)から、気にせず楽しめばよいという気分。

 

あと、仕事とは関係ないが愛媛の母親との通話で、連休に自粛してない人に対して「腹が立つ」と評することにもなんとなく殴られた気分になった。している人もしていない人も単に「自分のため」にやっているだけのではという素朴な疑問がまず1つ。ここで出てくる道徳はきっと「迷惑」だろうが、迷惑をかけないことより迷惑をかけていることに向かう道徳感は、ニーチェが「ルサンチマン」と呼んだ(今日ちょうど読んでいた)ことに近いのではないか。漠然としてしか捉えられない怨嗟みたいなものを正当化するのが某とか。僕が気になるのは公衆への迷惑というより、大切な人のリスクを高めてないかと思われる挙動であって、僕にとってどうかはほとんど関係ない(公園で話し込んでいるのはどうでも良いが、スーパーで通路塞いで話し込んでいたら動線はせめて開けてくれと思うルサンチマン)。

 

あと、自粛したら確かに落ち着くかもしれないが、これって落ち着いた後に解放感で外に出たら一緒のことなのではとしか思わないのだが、いったいどういうつもりの議論なのだろう。全然興味がなくて何もニュースを追っていないため材料が全くない。素朴に考えれば基準を変えるくらいしか対策はないのでは。現代社会は基本的に自由主義だから、制限されないことが原則であって例外にあたることにはそれなりと根拠が必要で、気にすべきはどこか。行動(移動)の自由、営業の自由、表現の自由はかなり重たい人権だから、対抗利益は命とか健康被害への切迫度なのでは。どうだろう、健康被害への切迫が重いという判断なのかもしれない。どの科学的根拠に依拠するのかにもよるのか。

 

やれやれ。

 

読書がストレス解消になるという科学的根拠があるということを立ち読みした。確かに、深い思考とか広い見識とか読んでいると日常の出来事が相対的に軽くなるというはある。何を選ぶか、何を考えるのか、感じるのかは自由なのだなと。あと、芸術が芸術作品を越えて現実を形作るみたいなことを美学史で読み、これも正しいように思う。娯楽では読んでいないから逆にスッキリするのかもしれない。娯楽とか受動的な情報って、自然と素朴な自分に侵食してきて自覚されない。

 

同じ文脈で、真剣(遊びも含む)に内省を言語化することはストレス解消というか瘤のマッサージみたいなものになるのかもしれない。別にその為に書いてはないが、副次的効果として。

 

もっと言えば、芸術作品とまでは行かないのは当たり前だが、読んだ人に対してもこういう作用がちょっとでもあれば嬉しいのかもしれない。この傾向は道徳からはやってこないよな。たぶん。

 

では、すっきりしたのでここまで。

 

おやすみなさい。

 

自由でありますように。