可視と不可視

 

 

 

明日は土曜日だが仕事である。先生と2人なので、雑談境界を曖昧にするためにお酒を飲んでいる。好ましい人って雑談してみたい人と一致するのかもしれない。内容とか盛り上がるかとかそういうことではなく。

 

でも、誰かとの雑談を想像したとして、それは自分が何を話すかであり中身に近ければきっと話しても大丈夫と思っている。まぁ、現実化するような領域ではないのは知っているし、僕は話し好きだが話したい訳でもない。

 

 

さておき。

 

寝る間際というか、ここのところちょくちょく音楽のことを考える。自分って自分で開拓した音楽はほとんどなく、都度の誰かの影響だよなと。受動的な始まりでも能動的になれば良いのだろうが、そういったこともない。

 

そもそも僕の音楽史(こんなこと書いても誰にも需要はないと思うが、そんなの初めからそうだから気にしない)として、音楽を聴くという傾向は全然なかった。中学生の時にゆずとか19とか流行っていて、音楽番組は流れているから見ているという感じ。耳で覚えているから当時の流行った音楽は知っている。大学時に歌いやすい曲ということで色々聞きだしたというのはある。ケツメイシとかオレンジレンジとかアクアタイムズとかだっけ。高い声出る人がラルクとかミスチルとか歌っていた。と思い出していたら、懐かしくなり「マタアイマショウ」を唄いながら帰る。ちなみにミスチルだとファスナーとoverが良きというくらいの好みはある。

 

その先は都度の恋人さんや好きの人という感じで、なんとなく流されまくる女の子風だが、もともと決まった地点があった訳でもないから問題ない。バンプとかラッドとか藤井フミヤのアナザーオリオンとか。歌が下手なので壊滅的だが。悒さんは、ようつべを徘徊して見つけた人だから、固有かもしれない。

 

そうして、どういう話になるかというと、ラッドの曲の中に、「いえない」という曲があり、これは男の恋愛ソング(コメント参照)なのだが、歌詞に「僕はいつかあなたを壊してしまう」というフレーズがあって、この傲慢で自我肥大な感じが僕にもあるなと思ったということ。

 

どう壊すかって、別に貢がせて生活を壊すとか、人格を破壊するとかではなく、影響へのおそれかもしれない。僕を通った前後では何かが変わってしまうのではと。ただ、こんなの誰を通しても一緒だろうなと冷静な頭では考えられるから、やはり自我が肥大している。加害妄想でしかない。でしかなかったら良い。であるべき。

 

と、考えると、この歌詞で歌われているとは少し違うのか。文脈的には好きであるという情熱が冷めないところで時を止めたいみたいな意味で、壊すのは相手そのものではなく自分の中にある相手。僕はよくも悪くも相手の世界観壊してしまいそうだから消極性が育った。

 

今は朝のニュースも見ないが、小中高ぐらいには目覚ましテレビで占い見ていたなぁというくらいは思い出した。それほど一喜一憂していたかは定かではないが。ずっと流れていたら世界はそういうものだと思うよな。

 

僕は音楽ではほとんど揺れない。稀に鳥肌が立つこともあるが。たしかバンプの「ハンマーソングと痛みの塔」と宇多田ヒカルの「真夏の通り雨」。ただ、ライブに行きたいとかはない。これは共振的陶酔より固有の振動で良いということなのだろうな。音の振動って確かに凄いが、一体感とは。

 

固有の振動というのは僕に対する声で良いということ。音として残っていると中の言葉はほとんど覚えてないんだよな。

 

行くなら、クラシックとか、三味線(ましろのおとの影響)とかの歌詞がない音楽の方が良いかも。言葉と音は分けて揺れたい。マルチタスク苦手か。

 

なんだかふと思ったが、僕は参加型応援もできない傾向にある。モチベーションになるのは分かるが、いや、あんまり分からないから、ニコニコ動画とかでもコメントは一切しない。匿名的モチベーションになりたくないという傾向もあるのかもしれないが、あるものはあるがままに見るだけみたいなところがある。自然体質。だから、なくなったことにいちいち残念がったりしもしない。消えた人が幸せだったら良いなとは思うが。

 

そういえば、ミクシィでの日記の語句検索は、「文章」、「読書」、「小説」が多いです。見てはいけないものを読んだ気がしたが、だいたい正しいと思いました。

 

やれやれ。

 

真面目なお勉強話をする感じでもないが、真面目な情報も遊びの思考は大事よな。外では神妙にしていても、中で、いやそれなんでやという余白。刑法はそういう思考に馴染む。この先は自重の壁があった。

 

新刊枠だった絶滅危惧種なのかも終わってしまった。至言がいっぱいあったな。僕は森さんの文章というより傾向が好き。初期の全てがFになるで、内部の人格がわめき散らすというのは参考にしているし。

 

「バーチャルは自由ですか」「ある程度は」という問答があった。まぁ現代よりは進んだ世界で、バーチャルでも実感がある世界だとして、どちらにせよ、何処かに自由を求めるのは悪手よなと思う。

 

例えば欲望が際限なく実感として開放できるバーチャルがあったとして、そこに自由を感じるは最初だけでしかない。笑うセールスマンの世界。これはなんでかというと、自由の観念自体が、不自由を前提としているから。

 

こういう、何かには反対の何かがセットであるという観念はとても面白い。

 

言葉の観念が更新される。言葉はうごうごしたものを箱詰めしてラッピングするものだという観念は10年前くらいからあった。これはいわば不自由性の話。言葉では伝えきれないものがあるのは発信側では自明だが、受信側は言葉としてのパッケージでしか捉えられない。

 

更新後は、うごうごした中身が海のように膨大な水たまりとして、言葉はそのたまりから掬うためのコップでしかない。コップで掬ったものが現象化される訳だが、これはコップの中身を見るか、そこからたまりを見るかで世界が変わる。

 

要は、言葉には非言語が必然的に付着しているし、なんなら言葉がなくてもメッセージは捉えられるということ。語るのは言葉だけではない。

 

ここまで。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。