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順調に精神が引きこもってきている。言葉が詰まる。いや、業務妨害罪の「業務」とはとか、「威力」とは意思を制圧するに足りる勢力だっていったいどういう日本語だとかはある。「偽計」とは誘惑・欺罔する、あるいは人の錯誤・不知を利用する違法な行為だったか。こういうことを考えていると、自分が管っぽくなってくるな。管が見る夢現

 

さておき。

 

「不在」の中で不在が1つ。家主を失った家。主人公の父親が亡くなって住んでいた家を相続して中を片づけるときの描写。実家に帰省したときの母屋を思い出した。今は実家の方も誰も住んでいないからそんな雰囲気になっているだろうな。母親はもう少し街に部屋を借りて住んでいる。あのなんとも言えない虚ろな感じはなんなのだろうな。たしか作者さん同年代だから色んな不在を感じだす歳なのだろうなと想像する。僕の場合は18歳だったから、おそらく順番が逆転している。不在がデフォルトで良いじゃないか。陰を落としているというよりは、うーん、なんとも言えない感じがある。もっと会話ができていれば、とか、会話が増えたところで何を理解できたのか、とか、とか。

 

まぁでも、そういう評価は受けてきたのか。それに合わせてちょっと暗めに過ごす、みたいな。いや、もともとか。管的思考の副次効果。記憶と呼ばれるものを活性化すると色々再現されてくる。世のおべんきょ家はよくもまぁ淡々と習得できるものだ。

 

やれやれ。

 

もう少しきちんとできれば良いなと思う。このきちんとは社会的な大人みたいな意味ではなく、もっと生身寄りで、自分が決めたことをきちんと毎日こなすという意味。別に完全な禁酒は含まれていない。徐々にはできるようになっているような感じだが、次の項目は睡眠かもしれない。寝起きは悪くないが、寝付きが頗る悪い。こういうのもおそらく「技術」の範疇ではないかとふと思ったため。寝られた・寝られなかった、を天気のように語る人が居るし、僕もそういう風に捉える傾向があるが、天気よりは操作性はあるはずよな。まぁ寝るために生活を不自由にするのは本末転倒だとは思うが、睡眠大事。

 

そういえば、素面での私信は思ったより恥ずかし過ぎた。罪悪感というのはあまりなかったようだが。恥ずかしいってなんだろうな。誤解を受けることはない(解釈に委ねているから)し、曝け出しなら酔い任せの方が酷いのだが。言葉が乏しくなることでコミュ障がバレるからだろうか。それは対面したときに既にバレている。

 

恥ずかしいといえば、大学に入って友人2人と家で飲んではじめて酔っぱらったときにこれを連呼していた。あれもよく分からないな。自分の汚点が露出されるところなのか。あれ、では、素面での言葉の方が汚いと認識している。いや、境界を意志で飛び越える恥じっぽいな。冷静に考えるとそれは道徳律に反するだろうという無意識の観念。そして、きっと他の人にはできないことだから。

 

自意識過剰が行動経済学用語だったことを発見した。自意識ってもともとは心理学用語だよなたぶん。自意識過剰の意味は、自分を賢いとすることで選択への見込みが甘くなるということだったから、言葉だけ遣って独自の意味を構築したのではと思ったり思わなかったり。自意識ってもともと、自分に意識があることに対する自覚みたいな意味だと想像すると、自意識過剰って自他の境界が曖昧になって生活に支障をきたすとなりそうな。自意識過少だったらどうなるだろう。

 

あと、「契機」という言葉がやたらと出てきた。たしか、現象学。この言葉憲法でも出てきてどうも意味が掴めないと思っていたため、少し分析する。「変化・発展を及ぼす要因・原因またはきっかけ」とのこと。物事を始める手がかりというのもあり、こちらは分かりやすい。「○○を契機に○○をする」とか。ヘーゲルさんの語用だと、全体を構成する不可欠の要素で、微妙に意味が違う。憲法で出てきているのはこちらのようだ。契るって関係を結ぶことで、機は機会というより時機か、ふむ。分析はできてないが、自分の中では納得。

 

こう考えていくと、学問用語が日常用語になったものって多いのだろうな。ちなみに、この分析に特に客観性はない。念のため。やはり広辞苑欲しいな。

 

 

さて、今日はどうしよう。あ、明日は忘れずに寝る前の紅茶を補充しなければ。カモミールが終わったから、今度はラベンダーにしてみようかな。安眠で調べたら出てきた。実家にいっぱい生えていて、匂いが好きだった。違いが分かるかは知らない。コーヒーも毎日飲んでいるが、味の違いは特に気にしていない。まぁ味わうために飲んでいる訳でもないが。違いが分かるのはビールくらい。アサヒとキリンとプレモルくらいは分かる。エビスは美味しいがあんまり飲まないからきっと分からない。

 

お、良い感じに眠くなってきたのでここまで。

 

日記時間は閉じようとする精神的視界を広げる意味で大事なのかもしれない。

 

では、おやすみなさい。

 

良い夢を。