考々

 

 

庶民用のスーパーにはラベンダーはなかった。アールグレイを購入。日本のお茶は1週間に1回飲むかどうかくらいだが、ホットミルクティー(無糖)はなかなか美味しい。

 

さておき。

 

順調に余白が狭まっている。余白がないとほんと注意力がなくなる。その分余計なことを考えない、ということもないが、そもそも人が考えることに余計なことなどあるのだろうか。

 

昼ごはん時は休憩前にちょっとミスしてうっかり、「考える 弊害」でグーグル先生に教えを乞う。そしたら、読んだことがある「地頭力を鍛える」の作者さんが出てきて、考えることのメリットは面倒で時間がかかるが、全ての営みに応用が利くのだと励まされた。注意力が弱っているときに考えることなどしていたら余計にミスするから、あえて考えない方が良いというような文言を期待していたのだが。考えないで生きられるのであればこんなとこには居ないから仕方がない。つまり不満であれば鍛えるしかない。中途半端なんだよな、もっとキャパ拡がらんかしら。ただ読むだけではいけない。

 

寝る訓練でホットタオルをやってみたら、気持ち良かったが、右目が腫れた。日中は問題なく帰宅前くらいからだから因果関係はないと思われる。目を酷使し過ぎているからか。今見えなくなったらしばらく何もできなるな。視覚的文字的存在は退場になる。まぁ、それはそれで、みたいなことを考える。

 

そういえば、仕事中、少し揺れた(物理)。ビルの10階が仕事場で一瞬足がすくみ、先生もそんな感じだったが、私は全く大丈夫ですって言っている人が居て、どちらが生物として進化しているのだろう。どちらかというと、大丈夫な人の方が進化しているような感じ。素朴な生物的危機感を克服した種。ちなみに僕は絶叫系も駄目である。

 

昨日だったか、ピンクの絨毯の田んぼは本来の用途のため耕されていた。寂しいというより巡りめぐるなぁと思っただけ。その後、ポニーテールの女性が前を歩いていて、やたらと尻尾が揺れる。普通に歩いてこんなに揺れるものなのか、僕が知らなかっただけなのか(驚愕)となり、僕が女性でポニーテールだったらなるべく揺らさずに歩きたい、どうやって歩いたら揺れないだろう、と考えながら出勤した。なんだかんだ頭の中は平和だな。

 

昨日は、私信による意志的境界越えはしなかった。なんとなく「ついで」感が嫌だなと思ったのである。安眠の試みのついでとかではなく、ただ送るみたいな境地で送りたいなと。存在で十分なら、私信は余剰であってもともとがついでのようなものだが。「不在」で名も知らぬ他人として接して、そのまま離れるのは良きことなのかもみたいなフレーズがあったが、そんな感じもある。でも、こちら側からだとあまり他人としては見えていないようなきもする。

 

 

あと、どこかの頭の余白で人を理解するためにその人の「過去」を知る必要があるのかということを考えていた。個別的な時間の流れにおいて順番はどうでも良い。

 

確かにその人の個人的体験はその人の口・文字でしか語られない情報として価値があるともいえるし、歴史を知ることで未来を予測することができるという意味でも有用ではある。ただ、その人を知るということが目的であるならば、「今」を見ようとする方がもっともっと大事なことではという思索。だって、その人の「今」に過去も未来も集約されている。過去から何を拾ってきているのかは所作や肉体、文体に結晶化しているし、どんな未来を想っているかは行動に出てきているはず。この文脈でいう「語られた言葉自体」は説得力において「どのようの語るのか」に劣る。

 

思いの外、余白があるようだ。結構今度の日曜日に向けた思考の巡りでいっぱいいっぱいの自覚だったが、言語化するとそうでもない。やはり人は他人の事より自分のことの方が分からない説が優勢か。考えることは別に経験則を覚えていて未知の現実に似ている過去をあてはめて対処することではない。これはむしろ考えないこと。どの事象と似ているのかとか吟味し出すと考えることになっていくのかな。何気なく語られる日常用語って、奥が深い言葉が多すぎる。情報もよく考えると分からないような。

 

理解と分かると納得の違いとか。理解は理を解きほぐしてどうなっているかを把握することでありある物事の内在を見ることで、分かるは、ある物事が「他の物事ではない」という把握であり外在的な感じ。納得は問答無用に主観が受け入れてしまうことだろうか。と、たぶん僕の中には自分用の言語辞典みたいなものがあり、たぶん無意識に遣い分けている。だから、こういうのは考えて出しているというより無意識の可視化でしかない。つまり、昨日のも含め、別に一般的そういう風に遣われているという話ではなく、あくまでも僕の納得の領域の語意ということ。

 

考えるといえば、パスカルさんの「人間は考える葦である」。パンセという思考の断片のメモのような本に載っているフレーズ。これはたしか自然の中で弱い葦のような存在であり、宇宙がこの存在を潰すのは簡単だというのが前置きにあり、後に、しかし人間は自分が死ぬこと、宇宙が自分より勝っていることを知っている。宇宙は何も知らない。と続くような感じ。これって、今から読むと知識とか思考が云々みたいなことになりそうだが、なんというか、自分がどのような存在として固有であるか自覚できるという自我ないし自意識のことだと想像する。これが書かれた当時の社会意識は定かではないが、今の水準での個人主義ではないだろうし、もっと人と人の意識が未分離とか社会において民衆はほんと草のような存在だったのでは。

 

と想像が捗ったところでここまで。詰め詰めで考えているつもりでもまだまだいけるな。

 

心は暇人。

 

では、おやすみなさい。

 

良い夢を。