近さ

 

 

 

どこぞの村上さんが最初の小説の冒頭は、「完璧な文章は存在しない、完璧な人生がないようにね」だが、僕がふと思い出したのは、文章(小説だったかも)を書くことは自分のものさしを持つことだというところ。個々の言葉なり文体なりに自分なりの尺度を持つことなのかな。何にせよ、書いたように読まれないのが文章だし。

 

個々の言葉とか概念ともっと仲良くなろうと思った次第。仲良くなるの定義はまた後で。

 

さておき。

 

やや寝る技術は向上したかもしれない。とかいって今日は1人決起集会だからしないが。ホットタオルで目を休ませつつ、安眠音楽(ギターと波音)のタイマーを40分にセットして音の波に集中する。仰向けで、手の置き所は胸の上。右手を左手で包み、よく言えば祈り、わるく言えばミイラみたいな体勢がしっくりくる。祈ったり想ったりする。想うのはある人だが、もはや○○の人と言葉を当てるような感情ではなく、○○〇さん限定である。限定であることが良いことなのかは個々の感情を開示させば判断を委ねられるが、委ねるつもりはない。

 

僕は入眠の、「夢と現の境界」がとても苦手だとは何回も書いていると思う。変な話だが、全然知らない人がいっぱい頭の中に具体的な顔として出てくる。時には異形。異形というのは形が崩れているということではなく、およそ現世の人の顔ではないなというやつ。オカルトでいうと「This man」みたいなやつ。検索はしない方が良いです。誰一人、具体的な体験上の人ではない。いや、おそらく自分の精神上の何かなのだろうなと思っているから問題はないが、やはりふっと自分が抜ける感じがぞくっとして心拍数が増える。添い寝が好きだったのは、そんなことより自分以外の体温があることが良かったのかもしれない。でも人と過ごしていると無茶苦茶眠いんだよな。脳も活性化されない。これって人と居るときは、脳を活性化しない方が良いという経験則なのかなんなのか。

 

あぁそうそう。僕は人の顔はあまり具体的に想起できないのだが、対面で少し見れば、装いが変わっていてもだいたいわかる。でも、具体的に顔として想起できることって、よく考えたらおかしくないか。人の貌って動くのに静止画として記録されている。写真的世界観の逆輸入くさい。画像としての像だったら想起できるし。人の顔が認識できないという障がいがあるとどこかで見た気がするが、要は、何をもって「人」とするかなのだろうが。

 

顔=貌=表情がその人かというと、僕はそんなに本質には迫っていないと思っている。というか人の本質とか気にしていないか、では、自分の本質とはだったらどうだろう。顔はまささに当人のかおだが、顔見知りになったら気にされない。何故かというともう顔でなくても識別できるようになっているから。

 

いったい何の話をしているのかだが、自分が覚えている人の顔ってある意味デスマスクみたいなこと。具体的に表情が動かない対象になったから。いや、普通に生活していてもとなると、一瞬の画の切り取りをその人の情報として保存しているということか。世界を映像として捉えていないから、画を共有できるとも思えないんだよな。

 

余計分からないので、具体的な話。

 

本日はせっかく6時過ぎに起きたのに、右瞼の腫れが酷く一重どころではなかったため、きっと「ものもらい」だと決めつけて対処法を検索したら温める、冷やす、どっちも出てきたものだから、直感で冷やすに決めつけ、片目を冷やしながらおべんきょになり、なかなか進まなかった。片目で言葉を読むのは普通に見るのと全然違う。

 

ともあれ、2時間程冷やしたところ、なんとか歪な二重が構築されたため、赤いし腫れぼったいがなんとかなるかなと出勤したら、ほんと、誰一人にも気づかれなかった。もちろん気付かれないように対処したわけで目的は達成しているし、もしかしたら気付いたが言わなかった人も居るかもしれないが、あからさまに言われなかったということは達成したということ。僕への認識は職場の席に座って、ちゃんと仕事して、ある程度受け答えをできてくらいのものでしかない。昼休みに使い切りの抗菌剤を買って何回か入れたら、今鏡に映る目はちょっと赤いだけでほとんど通常営業の二重に戻っている模様。

 

愛着的関係が嫌なのは、こういったところにある。長く過ごせば仲良くなったとか知っているとか雑くて仕方がない。自分が決めた関係でもこうだったから、今度はもっとちゃんと見たいところ。良い人だとか自分を傷つけない人だとか安全だとかは、他人を自分と同じ水準で見られていないこと。

 

ここでカントさんを持ってくる。時間はアプリオリ(経験の前にあるもの)だという中に、客観時間と、主観時間という概念があった。これって自分を内省すれば当たり前のことだが、僕の当たり前がどこまで通じるかは分からないので一拍。

 

愛着的関係は、客観時間に重きがある。例えば、母親は僕みたいなやつが他人だったらきっとボロクソの評価だと思うが、生まれたときから知っているし、「自分の子供」という客観があるから、あんまり強いことは言わないし、関係が途切れないようにしている。

 

ちょっとしか、文字でしか語らったことしかないのに好意が芽生えたというのは主観的時間のことだから、そこは分かる。僕だって現実的な愛想より言葉に惚れる人だし。言葉に惚れたとき、現実はどうでも良いと思えるかどうかはまた別の話で、個人的にはその後にシビアな基準が控えていると思っている。僕にはそんな基準はないが、別の文脈でややシビアな気もする。

 

人生の営みにおいてこの客観時間と主観時間の調整は不可避なのだが、自分の主観時間の可動が客観時間においてどれくらいの時間を消費するのかを集計するって怖いこと。だから時間を外在的にするという感情は分かる。なるべく自由で居たいだろうし。

 

例えば、自分が1分で何文字書けるか、何文字読めるかと厳密に把握したとして、どちらを選ぶかという天秤とか、自分が洗濯物をたたむ時間、洗い物をする時間、ご飯を作る時間、とか考えだすと、身動きが取れなくなる。何をしたいかとは別の指標として、それをすることで自分の時間がどれだけ消費されるかがやってくる。

 

自分で生きるって、無茶苦茶大変。寿命は人それぞれだからなんとも言えないが、今の範囲で時間をどう使うかは誰にとっても等しい。どうでも良いがトイレで座っているとき、昨日の揺れの続きで、ここが倒壊したとき遠心力が働くが、どうやったら生き残れるだろうって考えていた。最後に飛べる筋力あるのか。

 

この文脈で言うと、僕は電子メールからもLINEからも離れたから、時間はちゃんと自分だけで使っている。ここを書いていて分かったのだが、自分は発信(現実化)することには特に煩いはないが、相互になってしまうと自由ではなくなってしまう。この不自由さが会話の醍醐味なのだが、別に日記で会話している訳でもなく。会話するなら同じくらいの文字数で何の意図もなく書ける人でなくては。

 

そうだ、言葉と仲良くなる話。

言葉って、あくまで表現でしかなく、なんなら表現のための手段でしかない。使い勝手が良い物みたいな認識。でも、物と捉えている限り、もっと理解しようとはならない。いちいち自分がそれとなく使っている言葉の定義を内省することって、自分にとって当たり前となている人を再考することと似ている。逆から、なんで誰かにとって自分が当たり前になっているのか。

 

ついでに、僕が血族が嫌なのは、ほんとは個々に当人を知りたいのに、年少だから年長だからみたいな一種の教室みたいになっていること。

 

要は、人ってあんまり人のことを把握したいという衝動はないのだろうなということ。あくまで自分の範疇の限度。

 

そんな限度で見られたとき、じゃあ開示しようかとはならない。

 

では、おやすみなさい。

 

 良い夢を。