ちっとも

 

 

生活という枠の目的は楽しむことではなく続けることが主だから生活の記録としての日記が楽しくないように読めるのは当たり前か。楽しいかどうかとかは無関係に価値があるというか、生活を楽しんだとしても、否応なしに固定された部分はある。仕事について書けないのは守秘義務だが。ステッカーコンプリートしたかったな。

 

人格の欠陥が発覚した。僕は別に好意を持った人に好かれたいという志向性があまりないようだ。素直といえば美徳っぽいが、相互であることに無頓着というのはなかなかの破綻者。でも、楽だ。僕の観念に付き合って良いことはない。律儀に対して素直で返したが、いい加減もう良いだろう。

 

さておき。

 

考えるというより管のように過ごした一日。パイロットフィッシュを思い出す。男性のための管になる仕事をしている人が自分という管の中で温まってくれるのが云々。管は空洞だが、空虚ではないと思うのだが。それに、管は入れることもできるし入れられることもできるという階層性がある。トッポみたいに。まぁ、管を規定のレールみたいに捉えると確かに不自由性はあると思われる。そこでしか動けない、というように。ただ、これを感じている人って、それほど外を具体的に想っているのだろうかというところは気になる。

 

僕の管はそういうのとはちょっと違って、始まりと終わりがある、何かが通り抜けるもの。何かが通り抜けている最中でも事後でも、その何かを感じる。なんとなく女性性みたいだが、感じるだけではなく、追跡できるというか経験できるというか。自分が女性であればややしっくりくるのかなと思う節もあるが、僕の本質は母性でも父性でもないっぽいから、宇宙人が良かった。次誰かとまぐわったらどうなるのだろうな。

 

具体的に書くとなんのこともない、過去問を辿っていただけ。2年分やって、明日は4年分通す。通すというのは、どういう思考の経路を辿ったのかを半自動的に読みつつ、別の頭でなんでそうなっているのかという疑問のハーケンも付ける。何か自分の時系列と似ているなと思ったら、高校の時にやっていたのとほぼ同じだった。特に数学。違いとしては、高校時は書いて辿らないといけなかったが、今や頭の中でできるということ。

 

まぁ、通すということには、姿勢を保つという筋力とか他に意識が奪われることがないようにするという物理的環境が必要になる。仕事場と生活環境を分けなきゃいけないのは、生活環境には他人が含まれているという前提がある臭いが、相手が環境を尊重してくれたらそんなことにはならない。子供は除くが。

 

あと、自分の切り替えの問題もあるはず。意志とは別に何かしてしまう。この文脈ではやっとこさ調整が利いてきて、音声付きの音楽聞いていてもスイッチが切り替わったら煩わしくなって無音声にするようになった。無音声のおべんきょ用の音楽は捗る。

 

時間と空間が経験の前にあるというカントさんの説も分からんでもないが、これって時空間の主観的認識が甘くないかと思ってしまう。主観的時間は前後が関係ないし、空間も場とかそういう話ではない。空間は後付けだと思ってしまう。なんなら時間も後付けっぽいのか。客観時間の習得は後付けだし、主観においてほんとに時間の観念が必要なのか。

 

僕は読むことを至上としていて、頭を稼働した後に読むと分からなかったことが分かるようになることが大事。だから、時空はあまり関係ない。主観的認識の中で客観に依拠すべきかということを考えると、現実的な部分で帳尻が合えばいいだけで、内部の解釈は、自分にとって都合が良ければなんでも良き。

 

結局は、意識に可視化されるかどうかということなのだろう。

 

芸術の本質は、直感で把握されるように可視化されるようにすることらしい。だとしたら、数学が人の心を一番示しているという立ち読みした言も割と真理なのだろうな。数学は論理というより直感に根差しているし。ルールは厳密だが、そもそもそのルールを納得できるかどうか。微積分全然分からん。

 

と、考えていくと、直感は何もしなくても培えるものではないということに至る。

経験の振り分けは微妙なところ。何かしたから経験できたことと、何もしなくても経験できることと。結婚式はやってみたかったところはある。全然音信不通の人達がどれだけ集まってくれるのか。

 

僕が面白いと思っている人生と人のものはずれているから、一致はないよな。

 

では、おやすみなさい。