非決定論

 

 

どんなに注意深く生きたとしても不注意なことは免れない訳だが、だからとて諦めることはできない。他人であれば離れれば済むが、相手が自分ではそうはいかない。

 

ほうれん草が安かったため鶏もも肉とケチャップ炒めにした。下処理はなるべく省きたい僕でもほうれん草の下茹ではする。味としての存在感凄いよな、ほうれん草。サラダほうれん草は全然苦みがないが。ほうれん草を使うとケチャップで味付けしたくなる。苦みとあまじょっぱさの天秤が好き。ほうれん草、好きな野菜の上位に来るかもしれない。味噌汁とか胡麻和えの和食も良いし、用途が豊富。

 

副菜は、きのこ4種(えのき、舞茸、霜降りひらたけ、しいたけ)を細かめに切りバターと胡椒を乗せてレンチン。体積が減ったところに、ゆかり、やさしいお酢を加えてちょっとしたマリネ風。きのことバターの組み合わせも王道である。きのこで味の存在感が最も強いのはしいたけだと思っているが、きのこ全般良き。

 

物事を褒めていくスタイル。

 

なんというか、アウトプットへの衝動が凄いためブーストをかけている。

 

「忘れない読書」はまだ読み切っていないが、方法論としてというか、人生論として面白いような感じ。記憶のメカニズムを文字化すると、記銘→保持→想起ということで、自分と無関係の物事については、記銘の段階で工夫(繰り返す、語呂合わせ、諸々)が必要で、保持に対しては特に関与できないはず。想起にもたぶんトリガーがある。要は、情報という外付け媒体を記録し再現する技術が記憶力ということなのだろう。こういう意味では僕はやはり記憶力ないと思う。

 

この本が提唱している手法は、たしか昨日も書いたと思うが復習。イメージ化、象徴化、図式で、体験の方法を流用している。自分に含まれてしまった情報を覚えているとは言わない。例えば、って難しいが当たり前に使っている自分の語彙に対していちいち自分が覚えているから使っているという認識はしていないとか。覚えているという認識自体が、それを外のものとしている。まぁ外用の語用としては覚えているということになるのだろうが。

 

これは逆から考えることもできて、自分の時系列で時の淘汰を経ても再現されるもの(言語化できるとはちと違う)ものは、この本が提唱している手法が勝手にされたものと言えるのではということ。

 

ただ、最初のイメージ化がざっくりだと、残るものもざっくりな感じはある。いや違うか図式の方か、あの頃とか昔とかで取り出すと、関係性として今の方が優位だから、拙かったという意味で再現される。

 

この図式って、美学でいうのとも近いような気がするんよな。自分の中で、対象をどう位置付けるのかという関係的「場」がもとにあってそれを振り分ける脳内処理が行われる。ここをやっているのは無意識で、この本のはこれをちょっと意識化していきましょうという方法論。こういう意味ではたしかに空間はアプリオリ(経験の前にあるもの)のような感じはする。脳内空間は意識的に実践することで拡げることができるのではとも思うが。

 

立ち読みで、アドラー心理学の本をちょっとだけ流し見したところ、人への理解が不可欠だというフレーズが出てきた。人への理解ってなんだろうなと思うと、たぶん自分にとって都合の良い存在ではありえないという認識の下に関係することではというイメージが浮かんだ。人間と離れていると、そういうのに疎くなるということだったが、どうなのだろう。僕は1人になった後の方が人を理解したいと思っている。

 

「悔い改める罪人」というフレーズが残っているのだが、なかなか凄い言葉よな。価値があるというところまでは読んだが、その先はあんまり見ていない。どういう意味で価値があるのかと想像するに、「自覚」みたいなところなのかなと。

 

わたしはあなたの為に生きていない、あなたもわたしの為に生きていないみたいな言葉ってアドラーではなかったかと今調べてみたが出てこなかった。どこで読んだのだっけ。あくまで他者と自分は別物であるのに、他人を自分の欲求のために使ってしまうという意味で罪人なのではという感じ。その自覚をしたあとに個別の自分にたどり着けるという意味で「悔い改める」では。アドラーさんの原文は読んだことないから知らないが、何か宗教の匂いがする。

 

僕は布教してくる人はどうかと思うが、宗教自体は否定していない。何を使うにしろ精神の安寧は大事。何かをすることで認めてくれるというのはなんとも自然的であり超自然である神様とはそぐわないと思うが、そういう神様を設定することは自由。

 

僕が日本語さっぱり分からないということと、日本の国語について。国語のおべんきょで文章を読むのが嫌いになる人は多いと思う。僕もそういう傾向があったし。評論でも小説でも作者ないし、登場人物が何を表現しているかが問われて、言葉自体から読み取りなさいということになっているが、今になって思うとほんまかと思うし、おそらくそうしないと採点ができないという政治的(教育的)視点があるのだと思う。ある接続詞のあとが大事だって言い分は分かるが、じゃあ他のことが大事ではないのかというと、大事でなかったら書いてないよなという話。小説の風景の描写に1意的な示唆があるとするのもなかなか凄い。

 

こういう教育のたまものが、言葉は一意であるみたいな傾向だと思われる。インターネット世界でも、誤用が気になる人がいっぱいいる。その言葉の使い方は違いますよって指摘する人。個人的にはそんなことより意味が分かれば問題ないのではという感じ。国語教育は弊害しかないのではないか。単語の意味とか覚えされたがさっぱり残っていない。それで言ったら、古文の単語の方が日本語的ではあるような気がする。あはれとかおかしとかいみじとか、使われ方によって意味が違う方が普通だ。

 

ところで、どうでも良い話だが、僕は幼少期から長い間、自分の言葉が通じていないという齟齬があった。会話がかみ合わないみたいなこと。ずっと言葉については違和感があって、やっと最近、人は国語辞典での語義ではなくそれぞれの語用で言葉を扱っているからこの溝は埋まることはなく、会話がかみ合わないのはむしろ良いことなのではとなってきた。

 

造語とか当たり前だし、あくまで自分の言葉を使えば良いし、その意味は相手が捉えたら良い。

 

言葉嫌いの脳って、脳は省エネを志向しているからイメージへの変換が必要な旧世界でのメディアである文字に興味を示さなくなるのも分かる。文字しかメディアがない時代にはそれしかないからしんどいとかは芽生えない。僕は言語のこの面倒くささこそが好きなドМである。

 

脳のイメージの識別能力はすさまじいらしいが、分かるだけでは残らないよなということ。

認識しやすいというだけであって残すためには、自分のものにしないといけない。

 

文字が上滑りする現象も、文字だけを追うことになって、イメージに変換できてないから。実は文字を読んでいるようでイメージに変換している。

 

もう少し。

 

インターネットと現実について考えたとき人の存在ってどちらが重いのかということを思索。

 

現実の方が重いという天秤は分かる。ある意味逃れられないし、ここを軸にすることで自分が自分であることがどっしりと認識されるし。

 

ただ、インターネット世界に逃れている人が一定数いる以上、その自分に不自由性があるということであって、当人そのものという基準で見れば、インターネット世界における存在の方が重くなる。インターネット世界においても烏合の集で在る人って正味よく分からないが、当人にとっては価値があるのだろうな。

 

こういうのは結局のところ何を軸にするかでたやすく変わる。

 

僕はというと、インターネット世界と現実とで自分の存在の重さは変えていない。開示できないという意味では現実の方が不自由だが、この不自由は呪詛より陽気であり、もっと言えば相手に対して気付いたことをあまり現実化できないということで、吐き出しのためにインターネット世界に生きている訳でもなく。

 

生って、国語辞典的には生命が維持されていることだろうが、もっと細分化されるべき言葉よな。人間的に生きているという語用はそれぞれである訳で。

 

最後。

 

人生という言葉にどういうイメージがあるだろう。規定だということであれば決定論(運命論)な感じだが、僕としてはもう少し能動的に、自分の人生劇場という「舞台」感がある。だから、登場したいのであれば自発的に参加して来るかどうかが問題になる。

 

では、おやすみなさい。

 

良い夢を。