潜在

 

 

有ったり無かったりする存在でありたいと思う今日この頃、皆様ごきげんよう

 

 

昨日は何か変なこと書いてしまったのかと一瞬ぎょっとした(この「ぎょっと」することを認知するのは神経科学的には大事らしい)。なんだか読んでいただいた人が多いみたいで。

 

想像するに、冒頭文の辺りで引っかかったのではという感じ。ただ、僕には予知夢みたいな能力はないし、なんなら巻き込まれたら、真っ先に退場させられるだろうなと思っているし。

 

被災経験も特にはなく、PTSDになっている訳でもない。淡路の時はまだ四国に住んでいて早朝寝ていてちょっと揺れたという感じだし、東日本の時も大阪からテレビで眺めていた。同棲していた恋人さんは関東だったから気が気ではなかったとは思うが。

 

まぁ、地面が確かだって誰が決めたのだろうとは感じている。要は、何か全体的に刻まれたトラウマみたいなものを捉えている。そういえば、愛媛の水害の時も完全に地元直撃だったのだが、僕は不在だった。こういう経験則を守られているみたいに捉えられれば良いのだろうが、あいにく、たまたま順番が来ていないだけという感じ。

 

さておき。

 

本日はぴっちぴっちちゃぷちゃぷらんらんらんの朝。ピンクのアジサイって可愛らしい。紫の色素から青が抜かれただけかもしれなくても、水滴をまとった姿は艶がある。そうして、2カ月前にはピンクの絨毯だった田んぼはクローバーの栄養を経て見た目は真っ当な畑になり、奥のパイプから近くに居ればごーごーと音が聞こえそうな勢いで水が送られていたのもおかし。

 

母親に報告したのだが、「残念」というフレーズが返ってきていた。これははたして、何に対する残念だろうと穿ってみると、なかなか悲惨なことになるのでやめておく。まぁ子供は親を選べないというのは逆からしてもイコールだし、この自発でないものに対する親しみが愛着ではという感じがする。僕なら愛着があろうがなかろうが、自分が自発的に決めたことには殉じると思う。決めたことが間違っていたことが判明すれば、転換できることも自発の概念に含まれているし。

 

約束は自分とするもの。

 

読むべき本をごっそり外すと余裕ができたため、kindleで読んでいた応用神経学の本も残りを一息で読み終えた。はー、楽しかった。

 

自分がある状態にある時に、脳ではどういうことが起こっているのかという科学的メカニズムと、脳と意識の間にある「感」を捉えることの大事さ。ストレスもモチベーションも予測値・期待値からの差分であって、現象は操作できないとしても、それを捉える自分は意識的に生きることで改革できるという、なんともタイミングが合った本だった。翻訳本かと思ったら日本人の著作者さん。作家読みも捗りそうだが、ビジネス本っぽいからちょっと止めておきたい。

 

意識的に生きるというのはどういうことかというと、自分がある状態であることをモニタリングして意識的に集計すること。ただ生きているだけでは自分のことすら分からない。自分がどういうものを見て美しいと感じるかとか、何をストレスとしているのかとか、何を喜びとしているのか、細かな機微のこと。

 

日常の景色の中で面白いものを見つける僕の日記ってそういうことだろうな。いきの構造ともちょっと近くて面白い。

 

でも、このモニタリングの最大の効用は、他人もそういうものだということを認知できること。他人は主観的には世界の一部だが、ある他人にとっても自分は世界の一部でしかなく、それほど知ろうとしなくても生活はできる。

 

僕の脳がもともとこういう傾向だったのかどうかはヨクワカラナイ。

だって、脳は、主観より遥かに世界を学習しているらしい。五感で捉えた情報の他にも感情も集計しているのだが、使わなくなったものはそりゃあ断捨離したくなるわな。完全なブラック企業

 

でも、持論である、捉えられる世界の上限は自分の上限だとすると、人の機微がなんとなく感じられるということは、自分のことも同じくらい把握しているということでもあり、ただあえて言語化してなかっただけかもしれない。

 

今、言語学が読んでいる本の中でいくつかあるのだが、応用神経学でも、言語の限界を知るという項目があった。谷川俊太郎さんがコップという単語を遣わずにコップを言葉で表現するという例文があって、たしかに言葉を言葉としてだけしか読まないと全然何を書いているか分からないだろうなと思う。重力とか液体を留めるとか、コップと分かってから読めば読めるが、逆に至るには別の回路が要る。ちなみに僕は言葉フェチなので3文目くらいに分かった。

 

脳の機能として、言語処理をしているのは一部でしかなく、他の圧倒的な部分は非言語処理なのに、言葉で伝わるなんていうのは言葉という宗教に入信しているということ。言葉には非言語も当然纏われているし、言葉はイメージとして読まれるものでしかなく、そんなに操作性はない。あくまで自分の中でこう伝わるだろうというこねくり回しはできるが、それをしているような人はあまり見受けられない。あくまで物としての言葉だから、準物質的なもの。

 

物体とは何ぞやって、それが在ることが他人とすんなり共有できるとこだと定義したいのだけど、別に専門的見解ではない。

 

で、法律学が開いた分で書庫からかつて断念した本をひっぱりだした。言語学コースだったか。見たら僕が生まれる前に書かれた本だった。言葉には、表す機能があり、反対には表されるものがある。有名なヘレンケラーの水の話のやつ。

 

僕としては、この部分、分かるけど、ここで言語認識を留めているのだとすれば、幼児レベルではないかと思わなくはない。ぶーぶーが客観的には「車」という言葉が当てられるとかの話。言葉が伝わるはずという概念は、自分が伝えようとしている非言語対象を物質化してないか。自分の中身を言語化したとして、表すと表されるの天秤、釣り合ってない。固有名詞じゃないし。

 

僕は言葉にそこまで信用を置けないから、僕に投げられた言葉は当人にとって何を表しているのだろうということが気になる。

 

自分の言葉に対して信用をおけるのは、自分が自分の言葉について嘘をついてないという主観的なルールなだけ。これを共有されたいという願望はない。共有される必要がないから。

共有を求める方向性って、厳密に考えると、客観的な確証を求めたいというところにありそう。自分の言葉(=自分自身)が、どれだけの賛同を得られるのか。

 

誰かに認められないと生きていけないみたいな方向性はなかった。むしろ、そういう方向はやんわり気持ち悪かった。ずっと。

 

で、自分の中の「感」は非言語領域に属する。違和感を大事にしようって言ったってなんの理由もない感じを聞いてくれる人はあんまり居ない。こういうのをてらいもなく表現できるようになる為には、そうしても見てくれるんだっていう誰かが要る。物理的な肉体とか社会的なステータスとかパートナー関係とは別のもの。

 

そういえば、解放感の話。

 

どちらも現実化させては居ないが、それとは別に、他の方向性もあるよなと思った。何処にでも行けるし、何処でも住める。あと、神経学であったクリエイティブ脳が気になる。創造性は脳の全般機能を使うらしいし、次はこっちかなと。

 

もともとこの日記群が小説みたいなものだとすれば、完全な創作はありけりだよな。作家さんはリスペクトな存在だからやってなかっただけもしれない。

 

あ、言葉が記号であるという話を書き残しているが、まぁいいか。

 

という感じで、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。