もろもろ

 

 

人生にはあれは何だったのかということが無数にある。何だったかの回答ないし結果があれば経験則として採り入れられるが、そんなことはどうでも良く、実は現象として何であるかより、その時何故自分のナカが動いたか、その状態を大事にしている節がある。

 

 

ぼーっとしている。とはいえ、Kindleアンリミテッドで漫画20冊くらいと、啓発本的なのを1冊読んだ。全然ぼーっとしてしないではないかという話だが、ぼっーとしている領域は「しなければならない」という部分。これを廃したとき、何が出てくるのだろうと1週間くらい観測しようかなって。

 

ファンタジアという9巻の漫画を一気読みした。ディスクレシアの手品師の男の子の話。世界は虚構というテーマがあるのではないかというと読み取れる壮大な話なのだが、壮大過ぎて、途中で終わってしまった感がある。おそらくどこかの時系列で読んだことがある本。漫画は立ち読み含めてどれくらい読んでいるのだろう。千単位で済むのかな。

 

ともあれ、ディスクレシアというのは今やまぁまぁ有名にはなっていると思うが、識字障害のこと。今の呼び名はどうなっているか知らない。要は、文字から意味を読み取れないということ。程度問題だろうが、主人公の場合、発話は全然問題なく、ただ文字を読めないからテストが全然ダメで、社会に馴染めない中学生。その割に老成していて、人をちゃんと人として見ている。

 

「ほんとに自分を幸せにするものであれば、愛するしかない」とかなかなかの名言。

 

変な話だが、僕も一種こっちよりだろうなと思った。今や普通に文字を読めるしなんなら扱っているが、手書きで文字を書いたふとした時、カタチとしてしか文字が見えなくなる時がある。気を抜くとそんなときがある。僕が言葉を読めるのは、膨大の経験の蓄積でしかないような。結果、「わ」と「れ」、「あ」と「お」を間違えていたくらいまでの文字認識に近くなっている。

 

言葉の万能感というか、社会的ツール感は分かるし、識字というのはここにある。イメージで読んでいるというは異端なのかも。僕は算数の文章題とか、国語のテストとか、問題なく通過できたけど、ここで読んでいたのは、そこに書かれている文章ではなく、作問者の意図みたいなものだろうから、言葉を言葉として独立して読むって確かに凄い能力だ。

 

僕は広辞苑的に文章を書いていないが、広辞苑的な言葉を気にする人って言葉を客観的なものとして扱っているということよな。言葉の意味なんて時代によりけりなのに、今の言葉を正解にできるという感覚はなんとも時代の人な感じ。

 

障害という概念は、一般的なところに合わないというところにあるが、この一般って客観的なのもではなく、操作できるもの。

 

ここで、言葉は記号という話。そのものではないけども、そのものに代用されるという虚構というか、穴埋めとしての記号として代用されるのが言葉。例えばたった今という言葉は、書かれた時にはもうたった今ではないし、これって、固有名詞だろうがなんだろうがどんな言葉でも同じなんよね。ここを感覚的に一致しているものだとできるのが識字感覚では、という仮説が浮かぶ。僕はそういう感覚で言葉を読めないらしい。

 

でも、僕の基準と人の基準は違うのも分かっているから、どう言葉と自分を一致させているのだろうというのが気になる次第。僕は言葉を信用しないだけで人を信用しない訳ではないし。

 

本気には本気で返すし、本気でないなら本気でなく返す。

 

自分の感覚に従うみたいな話の啓発本を本日読んだのだが、僕の感覚では、人を記号として見ているか、人として見ているか、ってなんとなく分かるんよな。母親はまさに記号で、先生とか、古参の先輩は、ちゃんと人な感じ。この違いって何ぞやというと、自分から見たその人の情報ではなく、無縁の「感じ」が表現されるところ。

 

この本は、縁の話も書かれているが、いったんおいて。

 

本当は一回も行ったことがない近所の有料自然公園に行ってみたかったのだが、結局通常の買い出しになった。近所の公園を通ったとき、何か子供達が遊んでいるBGMが聞こえてきて、フレーズとして「証拠」という言葉が聞こえてきた。

 

この「証拠」という言葉って、大人になってからはあまり聞こえてこないが、子供の時ににはよく聞こえてきたし自分も言葉として使っていた。誰かが何かを主張したとき証拠はあるのか、何時何分に言ったんだ、みたいな。こういう語用って何なんだろうなとふと考える。

 

おそらく、何かから学習している模倣であって、何の模倣かって、そりゃあ大人社会よなと。証拠があることは優位になるし、証拠がないことは不利になる、という社会。

 

ただ、証拠の概念って、結局は、それが存在している事実であるって共有するための安心作用なんよな。物体としての証拠と言語としての証拠はあるが、どちらにせよ、誰にでも感知できる存在があるということで実際在ったとできる。

 

この話、よくよく考えていくと、人が何を現実としているのかという世界観の話になるのだが、あんまり気にせずに人は生きている。

 

こういう共有できる対象としての現実として証拠と語用しているのは先生であって、発話の言い回しがとても好き。伝わらなかったのは自分が悪いって言うのも、自戒なんだろうな。正味、ちょっと難解。僕は、仕事でこの人になるべく聞かなくて済むようにしようとしている。

 

現実はともかく、ちょっと抽象的にして。

 

言葉がどういう形態で存在しているのか。現実と架空の間くらいにあるものとしているから、匿名的な場で言葉が捗るのだろうな。言葉は証拠にはならないから、自由に遊ばせることができる。

 

ほんとに自由なのかというところで、ふと実体験に戻す。

 

頭の中にある犬とかざっくぅのスタンプを描こうと試んでみたのだが、全然うまく現象化できない。訓練すればある程度共有できるカタチにはできるとは思うが、僕はそもそも共有されることを目的としていないらしい。

 

やっと、本の話に戻ってきて。

 

「本当の自分になれば病はなくなる」というスピリチュアル的なタイトルなのだが、現実の臨床医が書いた本。

 

個人的には大きい病はしたことないし、無縁な本なのだが、知人が大きい病を起こしたら勧めようと思う本。まぁ、今、知人は居ないのだが。

 

病をやっているという言い回しがとても好き。僕はここ5年間くらい風邪すら引かないし、自発的な体調不良(飲み過ぎ)以外にはないし、全然疲れない。

 

自分をセルフイメージを守るために病をやるというのは、ずっと思っていたのだが、ただの素人イメージだったから特に表明しなかった。なので、やっぱりそうなんだろうなという本。

 

「べき」という言い回しとか、普通はそうだとか、のイメージが脳を汚染して病気になるし、関係を守ろうとして、弱まるみたいなやつ。カウンセリングでセルフの固定観念を払拭したらガンでもやめられるという事例があって、やっぱりそうなんだよなって。

 

僕がこうあるべきとか言ってくる人との関係をやめて健康になった。

 

こういう文脈で見れば、世界に対して開いているかどうか。

僕が閉じていたから、閉じた人しか出会えなかったというのはアリアリのあり。

 

で、一見ポジティブなセルフイメージでも、ネガティブなところから来ているというのは分かる。誰かに尽くした時に嬉しいという感覚は、自分の存在を守る為にやっているだけであって、劣等感の裏返しというやつ。

 

僕もそうなのかなと振り返ったのだが、僕はそれほど奉仕的な意識はないし、奉仕している自分に自己実現感もない。他人の嬉しさは嬉しいと思うが、それが自分の肯定感とは全然繋がってない。どうでも良い。

 

そうして、自分に対して許していないことは何なのかを突き詰めるみたいな話があった。

 

自分で考えたとき、いろいろ自分が許せなかった人生はあるが、結局はそもそも「自分の存在自体を許していない」のではないかということになった。厳密には、対人の関係。僕がその人の人生に存在していることで煩わせてしまうのが嫌だ。

 

そもそも、本当にしたいことって何なのだろう。

 

できることからしたいことに還元されるという話はあるが、僕は普通の社会人もできたはずなんだよな。スペック的には。

 

人生には必要なことしか起こらないというのは、主観的には真理だが、逆から見たときに、僕の存在がどう必要だったのだろうというのが気になる。そんなこと在りうるのかって。

 

では、おやすみ。

 

良い夢を。