可愛げ

 

 

夢の中で目を覚ますと、女性的なモノが僕に馬乗りになっており顔を近づけてきた。あぁ接吻かと思い、「ん。」と顔を近づけると唇辺りを舐めまわされた。しかし、全然官能的なものではない。僕の唇を割るような意志も感じられず、犬か猫か動物に舐められるような感覚。隣で寝ている女の子的なモノはドン引きしていた。

 

これは女体への欲求不満とかではなく、霊的な周波数に合ってしまったという話を読んだ影響。夢を見た後思ったのだが、小さい頃、何かにのしかかられて金縛りになること多かった。何か言われたことは無いが、何かは感じる。たしか首も絞められたこともあった。手跡が残る程の臨場感はないが。この部屋にもなんか在る感じはあったが、今は全然合ってない。

 

実家辺りはなんかそういう感じだったのかもしれない。全然安心できなかったことがそういう現象として出てきたという解釈もできるし、そういう感じのところに住んでいたからそういう風になったという解釈もできる。

 

スピリチュアルというか引き寄せの作者には1回会ってみたいなと思う。関東で整体をしているらしいし、ちょうど整体を初体験してみたい気分もある。宇宙人の声が聞こえるとのことで、僕はそんなこと在りえないと思う程常識にかぶれていないのだが、共感覚の1種なのかなと思う。言葉に変換されるということは、言葉に重きを置いている無意識があるのだろうなと。

 

書かれていることは、割とすんなり分かる。引き寄せと人間関係の一見すると矛盾している部分も、よくよく考えるとまぁそうかとは考えた。こんなことを真面目に考えるのはどうかしていると想われるかもしれないが、原子を直に見てないの存在を信じられることとあんまり変わらないと思う。この話はまた後で。

 

さておき。

 

最近の趣味というか一人遊びは、自分のアーカイブに残っている景色の中で遊ぶこと。二度寝しながら、小学生時の勉強机の引き出しを開けて点検。なんの思い入れもないハンドル式の鉛筆削りとか、ビー玉とかが出てきた。懐かしいとかではなく普通にそこに居る。二段ベッドは上だったことも下だったこともあり、姉だけが別部屋で1人用ベッドだった。

 

家だけではなく、通学路とか、川の水をそのまま持ってくるから魚とかカエルとかが入っているプールとか、今は舗装道路になる前の道とか、色々再現され、人の意識において時空は関係ないなという実感。

 

近所の八幡神社の下に樹齢が何年か定かではない大きい木があった。遊び場として使った記録しかないが、もしかしたら、自分が自分で在るだけ良いという観念の先生はこの人かもとか。僕は言葉に重きを置いていないから、感じの伝播みたいなものだろうが、今のところ他に思い当たる先生が居ない。

 

感じって人からだけ取得されるものではないというのは素朴な感覚として共有されているから、変にスピリチュアルには寄っていないはず。こういう文脈で、屋久杉さんに会ってみたい衝動が尽きない。いつ行こうかな。どんな感じの存在なのだろう。

 

こんな感じに過去で遊んでいて、暇に任せてメモ用に落書きをしていた。穴=井戸、あ、いどさん! と、高校時代に仲良くしてくれていた女の子が出てきた。恋愛的な意味ではなく、人間的な意味で。あだ名ではイーディーだったが、僕はあだ名で呼ばず、いどさんと読んでいたような。記録の中で旧友と再会して嬉しかった。今何しているのだろうな、この人なら会っても良い。

 

この過去遊び、別にあの時は良かった~、なつかし~、みたいな逃避的な感覚でやってない。あくまで今の僕に含まれた自分のアーカイブを辿る。写真とか動画というよりはやっぱりアーカイブが適切な語用。なんなら、今が一番良いに決まっている。

 

たぶん小さい頃って、こういう風に過ごしていたのだろうなという感じ。記憶力ではなく全部今だったはず。そこから言葉による常識という重しがどんどん乗っかってきて完成されるのが大人。

 

人は言葉を受けているのではなく、言葉に込められた感じ(テレパシー)を捉えているのだというのを見たから、ちょっと今日の仕事でも遊んでみた。あなたの話を聞きたいのですっていう感情満載で話してみる。言葉遣いは全然変わっていないのだが、何故かタメ口になってしまう相手が多いという不思議。仕事上の関係なのにこうなるって、なかなか面白いよな。舐められなのか親しみなのかは分からないが、誰にでもタメ口になる人とは違うから、親しみなのだろう。たぶん。

 

いや、この現実の遊び感、RPGぽくて楽し過ぎないか。

スッキリしてもらったらこちらもエネルギーを貰える訳で。

 

スピリチュアル本のミナミさんが聞いた宇宙人の声だと、地球という場に肉体を持ってきて遊びに来たということなのだが、僕の素朴な感覚と一致する。どこかに書いてなかったっけ。僕はこういう高次元の話を読むにつけ、高次元だったら三次元である肉体を離れた方が良いのではないかと思っていたのが、アバターとして肉体が必要だっていうなら分かる。

 

もう少し曰くを続けると、「思考が先、現実が後」とのこと。これは普通に考えると分かることで、自分が身の周りで使っている人工物は、誰かがそれを創ろうとしたから現実化・物質化されている。建築物とかインフラとか街灯とか。それと一緒だとのこと。

 

思考が現実を持ってくるから、したいこと、好きなことだけをすれば良いというのも分かる。常識って、局所的、瞬間的にしか正しくない思い込みだし。

 

重い感情と軽い感情があって、軽い感情を自分に満たすと次元を越えられるというのも分かりみ。この社会は重い感情を生産するシステムになっているのも分かる。お前は劣っている、駄目なんだみたいな競争社会。

 

なんだか変な方向になりつつあるのでちょっと戻して、僕の素朴の話。

 

断捨離精神はないが、自分にとって必要なものしかいらない。この前ポケットWi-Fiを新しくしたのだが、営業の可愛らしい声をしたお姉さんが、ウォーターサーバーが無料ですって営業してくれたのを断った。便利なだけのものはただでも要らない。あと、スマホとPCの修理もできるよというサポートをつけるという話も断った。

 

ついでに、某流行りのワクチンも職場で接種をできるから希望するかどうかと判断を迫られ、これも断る。感染のリスクより副作用のリスクの方が現状高いという素朴な判断。

 

数年前の自分だったらどれも断らず重たくなっていたはず。

 

断捨離ではなく、そもそも要らないものは選ばない。

自販機の当たりも当たるな当たるなーと思うのは、自分が選んでいないことで自分に影響があるから嫌なのである。

 

戻ってきて。自分が何かをできないという呪いは、セルフイメージを低く見積もるように社会のシステムがそうなっているというのは、だいたい分かる。他人に対して否定的な言葉を扱う人は目に入れない方が良いし、自分がほんとに何をしたいのかを自分に聞いてみるというのは分かる。

 

僕のセルフイメージは、だいたいなんでもできるのではないかということになっており、自分が苦手なことなんてないのではないかと思っている次第。話すのが苦手だと思っていたが、仕事でできるのであれば、日常でもできるし、やってなかっただけろうなと。

 

何がしたいって自分に聞いてみていても、言語的な返答はない。一時期すげー自分に怒っていたが、そんなこともないらしいし。なんでもやればいいやんって放任されている。

 

ここで、人が人に対して想う感情的言語の大小等号の話。

 

この本では、自分のことを褒めまくってセルフイメージを回復しろということ。確かに、凄いとか偉いとかは自分を保護対象にするのであれば大事だろう。悲しい思いをして欲しくないとか、寂しくない方がとか。

 

ただ、この本曰く最上級の軽い感情は、尊敬と感謝らしい。

 

だとすると、尊敬する人物を褒めるか、あるいは保護しようとするか。いやしないはず。

凄いと思うことはあっても偉いと思うことはない、保護対象は自分の生活圏に居るから。

 

みたいな話はどうでも良い。そういう世界で満たされているなら全然問題ない。

なんか不満だと思うのであれば、軸が当人の中でズレているのだろうな。

 

ただ、このスピリチュアル本には先があるだろうなとは思う。

 

僕は、意識とは別に体に対して、色々無理させたが生き延びてありがとうみたいな感覚がある。退場しそうな時期は確かにあった。生き延びたからこそ今色々発信できているし、出会いもあるし。

 

褒めるの延長は見守るだし、保護の延長は放任。

 

そうして、自分がしたいことをするという文脈もなんか違うと思っている。

 

小さい頃の楽しむ前に対象に没入して客観時間がいつの間にか過ぎているということが最終地点なのではという感じ。

 

あぁ忘れそうだった。

 

この引き寄せの次元において、他人の引き寄せは次元というか世界軸がズレているのだろうな。自分と他人を同値にするって、情報量的に絶対できることではない。人間関係は一種のパラレルワールドと考えると、個人的に、自分で生きて問題ないなと思われる。

 

では、ここまで。

 

おやすみなさい。