非対等

 

 

 

思考の志向な指向性と、性が後ろに付く漢字の感じ。

 

 

本日は朝から質量があんまりなさそうな雨。これは田んぼに降る雨を見ながら通勤できるとワクワク。休憩時に公園の池に落ちる雨を眺める。アメンボ数匹がすいすい泳いでいる。瞬間ごとに変化する像を見ながら、雨の好きなところは波紋なのだろうな。

 

何かに似ている。言葉か。言葉だけのやり取りは難しいって言われたが、僕はこの言葉の難しさが楽しい。お互いが感じる言葉の意味の齟齬を補填したり調整したりするところ。こういった言葉による波紋は、影響というと強すぎるし、余韻というと遠すぎる。

 

やり取りも良いが、自分が世界に感じる波紋を言葉にして世界に投じたことによって、誰かに波紋が伝わる様を眺めるのも面白い。それが僕にも波紋として返ってくるから、また投げ返す。

 

なんだか枕草子の冒頭文の訳文みたいなっている。「雨は波。」みたいな。これは昨日、原文を読み返したことによる。やっぱり、リズムが良いよな。源氏物語といい徒然草といい、音の波。

 

僕は自分の文章についてもこれくらいの認識なのかもしれない。伝えたいことがあるではなく、言葉を世界に置いてどうなるかなって思うだけ。ここにまともな目的を持ってこようとするから不協和音が起こる。広く自分を読まれたいという意志はないが、広く波紋が起こりそうなところに置いておいてみたいというのはある。

 

さておき。

 

過去のアーカイブに遊んでいると、これは未来においてどんな光景に居たいかということにも転用できる。さてどこに行こうかと感じが起こる。屋久島は泊まりがけになるだろうから、デザートは後にして。ふと、ぶわっと「湿原にある木の通路」の光景が起こった。

 

こういう時、人に聞かなきゃいけないとか本を買わなきゃいけない時代でなくて幸い。グーグル先生にご相談。「湿原 木の通路」。木の通路は木道と呼ぶらしい。釧路の湿原が出てきた。なんでこの光景か出てきたのか、出てきた当時(今朝)には分からなかったが、もしかしたら、この湿原に行ったことがあるのかもしれない。摩周湖の霧は覚えているし旅行には行ったことがある。小学生の時。

 

で、関西とか条件を絞ったり変えたりして、岡山にそういうスポットがあると突き詰めた。徒歩圏内で無理ならレンタカーも考えなきゃなと思っていたのだが、JRの駅から徒歩40分くらいなら、十分徒歩圏内。これを徒歩圏内とできるかどうかって微妙なところだよな。僕は歩ける距離なら歩くと風景がちゃんと見えるから良いのだが、目的地という結果の方が大事な人も居る。

 

岡山だったら朝一で新幹線に乗れば日帰りで行ける。たぶん時間が余るから温泉に入って帰って来るくらいの余裕もある。地ビールも飲めるはず。これって、今週末でできるんだよな。レポートお楽しみにという感じだが、何処にでも行けるという可能性を可能性のままにしておけばそれは自由にはならない。試行としての思考の至高な頭の中の自由も好きだが、体が移動する自由も好き。

 

動物園にも行きたいのだが、これは自分だけでは完成しないから別の話。

 

ところで、kindle本。次元の次は、ビジネス本の説明力をアップさせる方法という地に足が付いたもの。面白い。説明という文脈では、自分が言いたいことを自分の中で正確な言葉を遣うことに何の意味もない。割と一般語用の言葉遣いが悪い例としてここにあった。説明したいのであれば、相手も居るし目的もあるはず。だから、自分の中にある言葉ではなく、相手にどう伝わるかを加味しなきゃならない。僕は聞く人だから相手が滅裂な語用であってもその中で何が本質なのかとなる回路があるが、話す人として相手の回路に合わせる技術は大事だなぁとふむふむする。

 

ほんとに伝えたいのか、発散したいだけなのかって一見分からないよな。例えば、自分の感情を慮って欲しいと思っている人の言葉の意味をどれだけ読み取っても正解には至らないし、言葉を尽くせば正確に伝わるなんてことも自分の世界に浸っている。この言葉だったらこう伝わるのが当たり前みたいなのも。

 

僕が言葉に重きをおいていないというのはこういう意味。伝わるのは言葉の意味ではなく、中に込められた諸々の情報である。ちょっとくらい拙くても、ちゃんと中身があればインターネット世界の言語であっても波紋は起こり得る。

 

凄く実用的なふむふむ本なのだが、僕のふむふむ度は高次元の方と同じである。別にどちらも完全に鵜呑みにするわけでもないし、どちらも自分の範囲で採り入れる。

そういえば、僕の文章は知的なのかという命題。冒頭に戻って、知性ってなんだろうなと考えていたのだが、個人的に知性って冷静に物事を選り分けるみたいな感じ。僕はこういう意味では知性の網の目ガバガバだから、知性はないんだよな。

 

知的かというとまたべつのことで、知的な文章っておそらく言葉が整理整頓されているように見えるかどうか。この意味では、僕は自分が使っている言葉は自分の中でどこまで整理整頓されているかを常々モニタリングしているから、真かもしれない。

 

性が後ろに付く言葉として思い付くのは、悟性、感性、理性とかがある。悟性と感性は外界をどう捉えるかとして共通項がある。感性はどちらかというと物事を捉えた後に表現されたもの寄りで、理性はもっと表現寄りかもという感じ。

 

言葉は理性だという命題はなかなか考えさせられるフレーズ。

僕としてはほんまかと思うのだが、そういうものであるという世界観も理解はできる。でも、自分が発している言葉ってそんなに整理整頓できるものなのだろうか。

 

僕も文章ならともかく、発話において理性的に言葉を遣うことはできない。いちいちこの言葉はどういう意味なのかってすり合わせができないし、ポンポン壁打ちされるリズムに乗るしかない。

 

こういうポンポン性が成り立つのは、現実の関係の中での言葉はそれほど重みがないということ。これはこれで唯物論的な世界観で分かり易いと思う。現実の人は情報量満載だし、自分についても生身が一番情報量あるとして良かろう。

 

ただ、僕はそういう軸では生きていないみたい。

 

引き寄せの法則で、なんで他人が世界の中に等価として出てこないのかというのが出てこないのかというのが疑問だったのだが、素朴な人の世界において他人は当人にとっての登場人物でしかないという意味で人間関係は「対等」では在りえない、で良いのかとなるとめちゃくちゃすっきりした。

 

要は、僕が気にしていたのは、深い関係になれば自分と他人の世界線が同値になるみたいなことであって、僕にとって相手が重くなるとかではなかった。

 

あくまで、人生劇場の登場人物としての重さなのだろうなと思うと、色々時系列で自分が相手に対して引っかかっていたことが可視化される。

 

素朴に考えると、自分の中にある相手と相手そのものは一致しない。一致率が高ければ近さになるのか、いや、そんなことはない。それが近さだとすれば、こんなのどれだけでも操作できる。

 

この操作性は遊びでしかない。今日上司と話して僕の事務情報を増やしたのだが、上司の中では僕という像は更新されただろうが、僕は何も変化していない。相手の中に在る存在はどうとでもなる。

 

とすれば、そもそも自分の中に在る自己像としての存在も、関係性の中にしかないのであれば、自分で操作できるものでしかない。

 

人のことは知ったことではないとは思えなかったのだがこの限定も最近解除された。たしかに、僕が要らないのだったら排除するくらいの意志は普通あるはずで、居ることでの罪悪感は余計な観念でしかない。

 

これはむしろ失礼なことであって、「対等」として人を見ていない。

 

そうやって素朴に帰ったとき、僕は僕に対する現実的効果で人を見ていない。現実的効果を離れても好きで居られる人を好いている。たまたま自分の近くにあるからその対象を愛しいと想えるとか、自分に何かしてくれるとかではない。

 

内省論としては、自分の物理に付着しなくなった、自分に何もしてくれなくなったその人でも愛することができるのかを吟味してみても、一緒に居たいと想えるかどうか。何かしたいと想える相手が良いというのもありうべき世界観だが、これって「対等」な関係なのか。

 

僕はそもそも1人が好きな人らしく、他人を自己承認の為に扱う観念がない。

 

上司に僕の家族関係を少し話したら、勝手に1人で居るのが気楽であるという感覚を納得されたが、他人の中に在る自分はどうでも良いんだなと思った。

 

もともとそんな奴だったというのは、自分の時系列を遡って折りに触れてある。

人が僕に安心するのは、僕が人に駄目出ししないからであって、何か行為をしているからではない。

 

という感じで、もっとお邪魔して良いんかな。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。