気にしない

 

 

過去、現在、未来の何処かの道すがら。良ければ刹那の縁をご一緒しませんか。

 

 

二度寝の前に8時まで待って洗濯機を回し、夢の中で書けたり書けなかったりする妄想に浸り、なんだかスッキリする。物理的な昇華というよりは、感情的な昇華。おー、なかなか切なさを感じておるなぁみたいな。

 

このすっきりの転換期は、祝福!と誰かさんが評してくれたように、試験に落ちたことが分かった日。あの日からどうも世界がおかしい。こんなに楽に生きて良いのか、人って皆このくらいで生きていたのかという感じが起こった本日。あと、僕はもっと人を信用して良いのだろうなと思った。別に現実的に何か人間関係が起こったとかではない。

 

朝、岡山の具体的な情報を調べていたが、思ったよりかなり近いし安く行けるようだ。広島と逆の位置関係で記録されていたため結構遠いイメージだったものが覆る。京都に行くのと時間的にあまり変わらない。朝一で行ったら早すぎるかもしれない。後楽園も改めてゆっくり一回りしようかな。

 

そうして、昼休み。手早くお弁当を食べ、綺麗なスニーカーで向かいたいという衝動に従い用具を探しに東急ハンズに向かう。本格的な革靴のケア用具しか見当たらない。しかしここは繁華街。次には庶民の味方、百均がある。ブラシと重曹を購入し、先程洗ってきた。全然落ちないじゃんって思ったが、磨くうちにみるみる落ちていく。何かの化学反応なのだろうが、めっちゃ面白かった。

 

家事がしんどいって誰が決めたんだろうなと、ふと考える。確かに僕も昔は家事とされるものに対して滅茶苦茶忌避感があった。でも、毎日ふつーに料理を作っているとふつーのことでしかなく、何かエネルギーが消費されている感もない。洗い物の順番をどうしたら効率的かとか、冷蔵庫にある食材で何を創るかとか、アイロンがけの力加減とか試行しているからかもしれない。靴を定期的に洗うようになったら、化学式から知ろうと思う。

 

これって、今の社会の全てに通じている観念で、しんどいことをやるのが偉い、いやむしろしんどいことをすべき、最終的に、生きるのはしんどいことだということなのだろうな。仕事もしんどいことをするから対価があるというのが一般的な感覚なはず。

 

しんどいって何か価値があるんかね。なんとなく原始仏教の解脱みたいな書きぶりだが、僕は苦行をして、欲望から離れてみたいな原理主義な感じでもない。当人が楽しく生きられるのが一番で、その中には俗っぽい何かがあって良い。ただ、しんどいのであればどうにかしないといけないよねとは思うが。ブッダさんの発言を聞いていると、因習が凄い力を持っていた当時のインドだからあえて過激に欲から離れよって言っているだけで、やっぱり信仰対象は自分自身であるのが1番と言っているように感じる。

 

たぶん編集とか脚色も加わっているだろうし、原始仏典は具体的な弟子とかとのQ&Ą集だから具体的なその弟子には修行とか欲離れが必要だったというだけかもしれない。

 

というのが僕と宗教との距離感。

 

さておき。

 

説明力がアップするkindle本が終わった。前半は言葉で分かり易くするのはどうするのかという方法論の話。例えば、結論から述べるとか、質問した相手が最後に聞いたことから答えるとか、事実と意見を分けるとか割と実用的だった。やっぱり発話による伝達は技術の問題なのだろうなという。

 

ただ、後半は結局伝わりやすくするのは人柄だみたいな話だった。本気度が分かるように下調べするとか、日ごろの信頼関係とか、貴方に聞いて欲しいとか。先に好きになれば、「自分のことを好きな人を人は嫌いになれない」、ブログとかインターネット世界に開示されていることを一通り抑えると一目を置かれるとか、お、と思った。普通にやっているしなんならそれを知られる必要もない。

 

 

仕事の光景。あるべき状態でないことが気になるのは、ストレスになりうる。出勤したら自分の名前の磁石をひっくり返すのだが、本日は先に出勤している同期の磁石が非出勤のままだった。隣の席だったら言うが、かなり離れているし、しれっと席を立ってひっくり返して上げるのもはばかられる。で、これを上司に言ったら済む話だが、これを言ったこと何か同期の評価が下がったりしても申し訳ないなぁとかもあり。

 

同期について最近気になるのは、なんだか歩き方がおかしい気がする。空いた時間に一生懸命自作のノートを読み返しているが、そんなことでは記憶に残らんぞとか、心なしか肌が余計に荒れている気がするとか。

 

なんだか、高校2、3年時に室長だった、不器用な真面目君を彷彿とさせる。めちゃくちゃノートが綺麗でクラスで誰よりも勉強時間使っているのだが全然結果に実らない。人格的にはとても好ましい人だった。

 

僕が同期の上司だったら、義務感で見に付くものはなんもねぇとか、ストレスのケアについてモニタリングするのだが、あんまり誰も気にしていないのかもしれない。ちなみに、同期だから見ている訳でもなく、ただなんとなく違和感があるだけ。なんなら直に接したときなんとなく僕のことを舐めている感があるから、そんなに話したい人でもない。

 

僕は結構舐められる節がある。別に良いのだが親しみと結果的には変わらないからややこしい。

 

ちなみに、ねっとり話す後輩さんは今月末で終わり。有給消化してぼちぼち出勤して収めるということだったが、出勤日にも休んでこのままフェードアウトする感じ。やっぱり柔らかい話しぶりは利己的な所作の一部だったのだろうな。

 

要は人を見ていることと、その人に対する印象が良きか悪きなのかが連動していない。だいたい同じくらいで見ている。だから過去のアーカイブを遡っても直に話したことがあまりない人でも登場する。意識でフォーカスすると逆に見えなくなる。

 

まぁ、あるべき状態でないことが気になるセンサーは、違和感のセンサーであって世界を生きる上では大事なことだから、無くすことはできない。

 

無くすといえば、言葉の話。撫でるってなんで「手が無い」というカタチなのだろうとふと思う。割と撫でたがりなので。調べてみる前に考えていたのは、自分で自分をなでる手はないという表意語なのかという感じだっただが、ふたを開けると表形文字で元々舞がだったらしい。舞っているときの手のカタチとかなんとか。

 

やれやれ。

 

冒頭辺りに戻ってきて、人を信用した方が良いという感覚について。

 

この信用は、僕にとって良き悪きではなく、人はちゃんと僕を良きように計らうだろうから、僕は好きに過ごして良いと思ってしまったこと。この「良き」は、継続に向いている訳ではなく、排除に向いている。ちゃんと要らなくなったら世界として離してくれるという信用。

 

なんでこのまどろっこしさがあるかというと、僕が他人を引きずる傾向にあったから。僕の中で離れたくなっても、身動きが取れなくなる。だから自己観の延長として、他人も僕が要らなくなってもなぁなぁの現状維持で引きずっているのだろうなと埃を被っていた。

 

ここが晴れると、僕は僕が好いている時空で生きていれば良いということになる。

ほんと、この感覚すげー楽。僕はちゃんと笑って誰かと過ごせる。なんならこっそり毎日笑って生きている。

 

文章世界の波紋で言えば、僕の文章を読んで雨の景色が想起される人とか、過去を想う人とか。僕も現在の知見を持って過去を過ごしたいということを想ったことはある(全然ださくないです)が、知見はもともと持っていて、ただ、開示する術がなかっただけだから、あんまり変わらないのではと思う。

 

こういう波紋を観測するの、めちゃくちゃ愉しい。

文章を世界に置いてみる醍醐味。読んで考えてくれているという開示もおかしだが、その中身は観測できないから、なんとも分からないところはある。

 

変な話、僕が1つの会社だとして、面接に来た人がブログ全部読みましたって言ってきたらぎょっとなる。よくもまぁ読んだよなぁって。では、どう読んだんですかって聞いたらどうだろう。そういうこと。

 

要は、僕は好きに人とご一緒するし、相手もちゃんと好きにやってくれるだろうと信用して好きに生きれば良いんだなと思った次第。

 

もともと他人のことはどうでも良いからこういう感覚がない人の方が多いのだろうなと思うと、どれだけ重しがついていたんだという今更。こういう知見はもともと学習された偏見を取っ払う経験をくれる人との出会いで起こる訳で、こういう意味では人は尊敬するもの。

 

ここで冒頭文に戻って、僕が読んでいる人も、僕を読んでいる人も、刹那のご一緒なんだよな。これは現実世界も同じこと。

 

自分の時間軸において、過去、現在、未来の中でどれが一番遊べるか。遊びって不謹慎だから、過去か未来になるが、本当に遊べる時間は今しかない。高次元の人の中の宇宙人は今が一番若いと表現していた。そういうこと。

 

おそるおそる生きてもつまらん。

 

 

では。

 

気楽に生きられますように。

 

おやすみなさい。