ただの動き

 

 

存在の本質とは何あることは分かるが実際にそれが何かは分からないこと。

 

 

戒めなのか逆襲なのか、筋肉痛具合が昨日と全く変わらない。なんか運動の方向に没頭すると体を鑑みなくなる傾向がある。1人バッティングセンター行って盛り上がり、気付いたら左手の親指の皮がずるずるで完治まで随分かかったこともある。その時も全身筋肉痛。ちなみに、バッティングはすげー下手。当たらないというか当たるようにスイングできない。

 

しかしながら、週末までに回復したら今度は何処を歩こうかと考えている。琵琶湖辺りか熊野古道とか、誰とも言ったことないスポットがえぇなと。某高原はイベント事が無い時にしれっと行きたいところ。海も捨てがたいが、行ったことない海ってどのあたりだろう、福井とか石川辺りか。割と非現実的なところに思考が行っているようで、僕にとってはあくまで現実感と地続きなのである。

 

さておき。

 

人への影響値が相手の問題だということと、具体的な人を見たり考えたりしないということは別の話。年下の先輩男子と女性上司が全く雑談をしない。仕事の手が止まるほどマシンガン雑談だったのにどういうことだろう。上司の方は別に普通だったが、なんだか先輩男子は元気がないように見えた。ほんとに気になるのであれば、今日はどうして雑談しないんですかとぶっこんでいただろうが、実はそんなには気になってはいない。違和感というだけ。

 

というのも、先週金曜日、最後に上司と2人になったとき、先輩男子が休みだったから話題提供で、先輩男子さん休みなんですか? と聞くと、体調不良らしいが、1日で治る体調不良って信じてないからよく分からない、と不信感を吐露された。こういう本音は良いから上司に対する面白度は上がる。

 

やはり、仲良さげに話していても、ちゃんと温かい関係であるとは限らないんだろうなと。まぁあくまでお互い仕事時間の暇つぶしをしている風には観測していたが。僕はこういうのには巻き込まれたくなかった。発話の交換だけでなんとなく繋がっている風な感じ。

 

とは別の温かい雑談もあった。お洒落な先輩が、僕のシフトを気にしてくれている発話があった。原則は1週間は1つの時間帯で、何か他の時間帯が人が休んだりすると、30分ずれてもう1つの時間帯の勤務があるのだが、今週の僕は3つの時間帯があるのを珍しいって言っていた。当然僕はお洒落な先輩のシフトも見ているから、○○さんは明日〇勤ですよねって返す。お洒落な先輩の対面には最古参の先輩が居て、なんとなくそれぞれの人の話ではない話で盛り上がる。京阪電車って綺麗ですよね、いや伊勢に向かう近鉄電車もなかなかみたいな。こういう雑談は心地よい。あんまり何がどうかという言語化はしにくいが、それぞれ自分が自分が、ではないところか。

 

聞くだけなら相手の主観だけも良いのだが、話すとなると、僕は話したいことがないからあんまり重きを置いていないことをさも重いように話してしまう節がある。まぁここの日記に書いていることは現実的に話せるようなことではないというくらいの良識はある。コモンセンスってカントさんだっけか。共通感覚論ももう一回読まないな。

 

読んでいるリベラルアーツの本で、プラトンの国家論が出てきているのだが、「教育とは視力を与えるのではなく、視野を変えさせること」というのがあり、なるほど、僕は自分で自分に教育しているのかもと思った。人の視野を変えさせて良いのかというとこもあるし。勝手な波紋ならともかく、ピンポントでするなら自発的行為だ。

 

視野を変えたところで、現実には仕事をしないといけないし能力がアップする訳でもない。ただ、ごっそりメモリを占めていた罪悪感の領域がぽっかり空いたことによって考える場が拡張された感はあるが、これは僕だけの効用である。

 

国家論は割と社会と個人の関係を考えている人には向いた本かも知れない。僕はプラトンさんの本では饗宴が好き、人間には女女、男男、女男という三種類が居るが、もともと半分にされているから、欠けた半身を求めるのだという説話。

 

まぁ社会を考えているようで自分を考えている人にはあまり向いてないかも。社会的な最高善なんてどうでも良いだろうし。自分にとって都合が悪くても正しく在るべきなんて考えらる人はそうそう居なかろう。

 

そういえば、次に読む本を見つけた。「AIは人を憎まない」。表紙をちらっと見たら、人類の未来はどうなると思いますか。A.人工知能によって人が滅ぼされる。B.人工知能によって人類が発展して不老不死になる。SFでやっていたような話を現実のハードカバーがやるのかという意味で面白そう。仕事を奪われるという感覚は分からんでもないが、AI

が生産性高めてくれれば、仕事しなくてもよくなって良いのではという素朴な感じもある。労働が貴いものだという感覚って、キリスト教とか資本主義からの輸入観念なのではという気もしていて。それがなくなったら何して良いか分からなくなる人も居るかもしれない。

 

僕はベーシックインカム肯定派だし、自動運転も取り入れた方が事故は減るだろうと思っている派だが、自分が動いている感で自己同一性を見るという感覚も分からなくはない。

 

別の罪悪感の話。これは「思考する身体」からで、人が自意識を持った時点で、体がヨクワカラナイものになったという原罪を背負うことになったとのこと。これはよく分かる。というか皆分かると思う。意識と体が完全に一致することはないし。だから舞踊とか音楽とか儀式とか作法ができた。僕が体を意識が搭載された器みたいに解釈するようになったはこういうところから。意識の時間と体の時間の流れ方は違うと表現しても良いかもしれない。

 

面白いのは、人は原因と結果をひっくり返して捉えてしまう傾向があるという話。1例として、アクセサリーと衣服のどちらが先か。どちらだと思う?

 

 

 

 

衣服の概念ができるのはずっと後。先に装飾品があった。意識と体が離れたことによって肉体が死んでしまうと概念を獲得した人間は、死を避けるためにお呪いとして装飾をすることにした。穴から悪いものが入らないように、耳とか口とか鼻とかに輪を付けたり、体の接続部である首、手首、足首、腰にも輪を付けたりするようになった。この歴史すげー面白い。僕は穴的装飾フェチなのだが、身体改造に含まれる不一致感に惹かれるのかもしれないとか。穴を貫かれることで一致する感覚を得るというのも不思議だが面白い。僕の性では起こらない感覚、いや、僕にも貫かれる穴はあるが、この話続けるとえっちくなるのでやめる。

 

 

やっぱり人間は無意識で時間を操作しながら捉えているなということが抽出される。

 

昼休みのとき、痛みを訴えてくる体で歩きながらふと出てきた言葉。「僕って薄情だよな」。

このフレーズを分析すると、情の篤さに対して特に意味を持たせていないだけであって人の存在を想っていない訳ではない。情は人に介入できる通行証になる訳でもないし、情ってあくまで主観的領域の話。ただ、情を共感するとか共感させる技術は社会で動くためには大事だとは思う。

 

これも具体例があるのだが、大学時代友人が何かの拍子で痙攣(飲み過ぎだったのか体調不良だったは定かではない)しだして、救急車を呼んだことがある。情が篤いのは動揺してあたふたすることだろうが、僕はかなり冷静に通話していたらしい。割と無我夢中だから具体的にどうだったかは覚えていないが、ほんとに相手を生かそうとするのであれば、情では足りないよなということ。心臓マッサージは肋骨折ってまでするものということは知っているとして、ほんとにそこまでできるのかとか。

 

原始仏教で、修行の為に愛着が起こらないように場を移すってフレーズがあったのがふと出てきた。愛着は自分と同じように個人であるということを見なくて良い温さだと感じるから駄目なんよな。そういう生活の方が良いとは知っていても。

 

ともあれ。

 

当たり前の世界は当然当たり前に流れるのだが、流されるのをやめると、1つ1つ自分で再構築しないといけない。すごくめんどくさげな作業ではあるが、僕にとってはこれが楽なんだと分かった。

 

もちろん僕の解釈論は、誰かに共感できるようには構築されていない。

共通項にもできるのだろうが、共通項にしたらブレる。

 

一応サンプルとしての論拠があるところもあるが、サンブルがないところと混合しているから、真に受けるような文章ではありません。

 

歩くのが好きなのは自分が動いていることが実感されるからだが、文章も同じなのかもな。この動きは変化ではなく、移動。

 

こんなのパートナーさんができても話せないことは分かっている。

 

では。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。