交換できないもの

 

 

 

物理的な移動はほとんどなかった1日。その代わり、午前中と午後に1冊ずつ景色として読んだ。10分100頁はやり過ぎで車酔いみたいになる。情報本って何が書かれているかが大事なのであって、何文字目で追ったかではない。

 

文字を読んで意味を追おうとすればするほど中身からは離れてしまう。というより、僕がきちんとした情報を扱えないというところにあるのか。僕が文字で再現しているのは確固とした情報ではなく、僕が持ち帰ってきたイメージだから、イメージとして採り入れないと書けないし解けない。

 

 

法律本で通しているのは強迫観念の上書きのためもある。景色は覚えているのにあるフレーズは覚えていないというのは、なんか変だよな。文字に固有の価値を置いて、情報として細分化している感。確かに最初の読解はここにあるが、ある程度読み慣れれば、場として見ることができるのではという試行。小説はきちんと一字一句、何なら句読点も計算されているものもあるからゆっくり文体を味わいながら心象風景で展開するものだが、情報が書かれている本はそうではない。

 

さておき。

 

僕の文章そろそろ読んでいる人が追ってこられないくらいになってないかと思ったのだが、いや、でも一応他の人が書いていることを参考にしているからそんなに突拍子もないことにはなってないはずと思い直す。価値観のほとんどが経験則に依拠している人の方がきっと読みにくい。だって比較対象がないのだから。これをなんとはなしに通せるのは、同じ時代に生きているからという理由でしかない。これが文化の力。

 

僕の文章は文化的背景だけでは読めないかもしれない。最近は古代ギリシャとか芸術の起源とかブッダさんの時代のインドに行っているし。

 

文化と言えば、「わたしを離さないで」。なんでノーベル賞なのだろうなと考えていた。いや、面白くない訳ではない。むしろ、文字を追うだけで光景がはっきり展開されて良き。以下ネタバレ含みます。

 

 

約束のネバーランド」感があったのは、どうやら臓器提供のために創られた学園が舞台だったから。そうして思春期特有のまぐわいへの興味というか、もっと直接的な単語が連呼される。連呼されているだけで特にそういう場面の描写がある訳ではない。

 

なにか違和感があるなと思っていたら、現代を舞台にした寓話が含まれているのだろうなということろで、これがノーベル文学賞になったのかというところ。感情とか習慣がどう生まれているか、みたいな。今日読んだところでは、カップルの所作がテレビドラマに依拠しているみたいなシーン。割と性に開放的な感じなのも、現代的だよなと。パートナーとしての永続性を意味しない。

 

こういう文脈でいうと、村上さんが候補に挙がるのもなんとなく分かる。営みの普遍性というか寓話性。村上さんのまぐわい描写のほうが生々しいが、僕はノルウェイの森を読んだ時から、こういうのは当たり前の営みなんだというメッセージとして読み取っていた。生は死の反対側にあるものではないという同じくらいの生活の話。当時は言語化はできなかったが、なんとなく全部同じようなことという意味。

 

まぐわい描写で言えば石田衣良さんのが生々しいし、僕も書こうとすれば。略

まぁそういう生活していないから書くなら虚構になるから別枠。

 

さておき。

 

好きなアニメの漫画版を読んだ。「プラネテス」というのだが、知っている人は居るだろうか。宇宙飛行士というか宇宙が生活に含まれた時代の話。アニメ版のしりとりのシーンが良き。「結婚しよう」「うん」、負け。

 

アニメ版は各場面が細かくなっていて良きなのだが、漫画版もあっさりしていて良かった。タナベというヒロインの口癖は自分の名前からか、「それって愛がない」。この漢字が入っている名前って良いよな。ダイレクトな感じ。

 

唯我独尊的に宇宙に突き進もうとする主人公はエゴというか自分しか世界に存在しないみたいな感じなのだったのだが、タナベとくっつき、愛とは何かを悟る。自分は宇宙の一部でしかない=世界と繋がっているということ。この愛=繋がりというのはとても分かり易い答えだ。

 

そうして、読んでいて鳥肌が立った場面がある。主人公と結婚したタナベと別の人(フィーという愛煙家の船長でキャラクターが好きなのだが主旨から離れるから省略)が会話している。「あんた、ハチマキ(主人公)のこと好きだったの」、「別に、プロポーズされたとき他に誰も居なかったし」、「あんた、はちまきのこと愛しているの」、「はい、もちろん」、「尊敬するわ」。ここでぶわっとなったのは、物理的な愛情の先着順というか、誰でも良さ。確かに、有用でも快適的でもないものを愛の対象としたとき、たまたまそばに在った存在が対象になるという潔さ。もっといい条件の人が居るかもしれないとか、自分が選ばれなかったかもしれないとかそういう意識が微塵もない。権化だな。

 

遡ると、タナベが宇宙に出てきたのは「自分の可動域を知るため」だったし、なんとなくシンクロニシティ。個人的にはずっと主人公のエゴに共感していたのだが。「悲しみも不安も全部俺のものだからもったいなくて誰にもやれねぇ」みたいなところ。

 

僕が読んでいるのも書いているのも、可動域の話。

どこまで素朴な自分で在っていいのか。リベラルアーツとか原始仏典とか哲学とか高次元もそういうところで、自分の感覚にあった何かが1つでも存在していたら、まだまだいけるなって思える。認めてもらうことは稼働域にはならない。ここまでだったら存在を認めて貰えるのかということにはなるが。これってどこまでか分からないから所在がない。

 

アリストテレスさん。善性の習得において、天性と理解と習慣があると言っている。全二者は誰もがたどり着けるところではないが、習慣は外からの強制力があれば誰でもできるとしている。その為に必要なのが法だって。

 

なるほど。法には道徳という社会からの強制力と、国家の強制力としての法律があるが、これらは、もともと善き人であるためにはという話だったのか。で、習慣の善性を自分の正しさとしている。知慮としての具体的事象を捌くとは矛盾しそうだが、善を前提とした上でなんだろうな。

 

道徳の授業を受けてもさっぱり道徳律は分からなかった。だって大人が全然それを実践していない。人が良い反応をしながらあの人はあぁいうところが良くないとかなんとかかんとか。

 

まぁあくまでどちらも物理的な行為としてのルールだったら分かる。内心はともかくそういう風に振る舞うように習慣付けましょうというルール。だから人が見てないところでは違反しても良い。と考えていくと、アリストテレスさんのいう善ってあんまり個人を見ていなくて、あくまで国家の国民レベルの話なのだろうなということ。

 

まぁ、今の日本でさえちゃんと個人になっている人ってそんなにいないだろうが。

 

自分の判断について、完全に自分の責任を追える人ってどれくらい居るだろうということ。

例えば、このご時世のワクチンについてなんとなく不安を解消させたいがために接種するとか、周りがやっているからとかではなく、ほんとにどうなっても他責にしないのか。

 

思想を遡っていく実践的効果は、法律学に作用する。

きっちりかっちり要件があるということではなく、あくまで常識とされてきたことの集積でしかない。帰納的ではなく演繹的という。いや個人的にはどっちがどっちか未だに判別できないのだが、結局は直感を言語化しているだけ。まぁ言葉自体がそういうもん。

 

アリストテレスさんが万学の祖と呼ばれていることからすると、愛というか好意もこの人が創った言葉が前提とされている。快適か有用かって、今の人でも普通にそうだもんな。

 

原因と結果を逆転するのが人だというのは別の人の言だが、好きだから快適なのか、快適だから好きなのかというのは全然違うよな。好きに正義(公平・均衡)を求めるのは何か違う。愛っていう大きな言葉にしたからだろうが、ここは全然合理的な感情ではないはず。

 

愛の繋がりは過剰な交換であって、何か余剰が生まれるもの。

 

凄くどうでも良い話だが、凝り固まった肩がほぐれてきている。

 

舞踊とかもっと見に行かねばな。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。