メタ愛

 

 

通勤時初めて見つけた印象に残った人が、帰り道でも向こうから歩いて来た。当たり前だが、同じ時間で働いているのだな。今週のシフトは公務員のような勤務帯だから何人か知った顔が居る。向こうにとっては目に留まらない景色だが、僕にとっては人。

 

田んぼも当然観察したのだが、ピロピロ泳ぐ個体がやたらと増えている。これって生態系崩壊かと思い、帰り道では少し立ち止まって見た。あ、このピロピロはヤゴの足ではなく、オタマジャクシに生えてきた足だわ。雨があまり降らず田んぼの端の方の水がなくっているから、もっと干からびてしまう前に、水が追加されるか、両生類になっていれば良いと思う。

 

 

さておき。

 

昨日の自分の日記を読み返して我ながらなるほど、となる。読んでの通り僕はまとまった思考を言語化しているのではなく、心に移りゆくよしなしごとをとりとめなく書きつくっているだけ。あんまり覚えていないのである。

 

愛の結論が2つの要素というのは雑だ。僕の感じではもっと日常にありふれているものなのではということだったから、もっとうまくまとめることができたはず。ただ、具体的に人に遣うのはなにやらはばかられる。実際私信で遣ってみたのだが、なにやら恥ずかしくなった。

 

愛の本質は「与ふ」というのが一般的な語用だと思われる。だから目的や結果や関係が問題になる。僕としては「分かろうとすること」というのが本質で、これは理解しようとするという意味もあるが、それに隠れた本当の本質は「分かつ」の方よな。ダブルミーニング

 

簡単に言えばアンパンマンのような行為で、与えるとしても、それは何なのかという話。自分の中で余っているものを与えるのではなく、分かたれた自分を与える。こういう意味では自己開示とかも十分愛っぽい。与える方から見ると分かりにくいが、与えられた側も含めると、愛とは「存在を分かち合う行為」になる。与えられたものが当人の存在に含まれるようになるという同一化。

 

これが特定の関係、特定の対象になると別物のように感じるが、僕にとっては同じこと。もともと対価は問題にはならず、特定のという枕詞が付いているからそういうものだとされている。「分かつ」には時間をつかうということもあるが、自分と切り離した対象そのものを考えるために時間を使うことも無償の愛ということにならないか。何の対価もないのだから。愛の対価性はあくまでオプション的な概念な気がしてならない。

 

楓の幹に触る行為が愛だというお言葉を頂いた。たしかに、僕は自然を尊重はしている。でもそれだけではないのだよな。波長が合うというのもあったが、こっちの方が僕の感じには近い。何かのエネルギーが充電される。尊重と充電の分かち合いなのかと中身を書いてみると変なことになるが、こういう一見、というか常識的には循環されない何かが循環するのが愛よなという感じ。

 

好きな人に対してもこういう何かを感じる。

全然パートナーでもなんでもないのにこの言葉を表明するのはいかがなものかという常識的はばかられ。

 

 

古木巡りしたくなってくる。日本の最高峰が屋久杉だとして、神社の御神木もなかなか凄そう。というのも僕がこういう感じを認識できていなかった時代でも色んな神社には行ったとき、御神木の近くに居るとなんだかざわざわした感じはあった。伊勢だったか出雲だったかの猿田彦神社と、ここの近所の名前は忘れた神社の御神木はなんとなく覚えている。どうでも良いが猿田彦、手塚さんのせいで鼻が大きいキャラクターとして擬人化されている。京都御所が好きなのも木が守られているからかも知れないな。空間としての神宮も好き。

 

と分かってくると生活で目に留まる街路樹にも親しみが沸いてくる。

別にそんなに触らなくてもええかなという感じ。

 

もう少し愛について。

具体化すればもうその人のものだからカタチは無限にあるのだろうが、行為とする以上、技術的な要素も含むよな。芸術学の本で、芸術の語源の中に、テクネ―というテクニックの語源になった言葉があって、なんとなくそういうことを想う。

 

エーリッヒフロムの「愛するということ」を知ったのはずっと前の100分名著なのだが、なんだか今目に入る領域に進行形で見ている人が居て面白い。本屋に「老い」置いてあるし。僕もテレビを見ていた時代は頻繁に見ていて、「菜根譚」が良かったような気がする。

 

そうして、「愛するということ」では、愛はいつか降りかかっているものだという認識の人が一定程度居るがそうではなく、実践的なものであるということを言っている。繋がってくるなあ。技術的側面での愛の行為は自分が与えたいように与えるにはどうすれば良いかという試行と、相手の愛がどういうことなのかということを受容する感覚を磨くこと。自分が愛していると思っていても相手が愛を感じないのであればそれは愛ではないし、何かを与えられないと返さないのも愛ではないということ。まぁ契約っぽくはあるからそれはそれはそれで良い気もするが。

 

僕はフロムさんの著書ではこちらより「生きるということ」の方が面白かった。愛と繋げるのであれば、こっちは特定の関係上の愛ではなく、世界に対する実践的な愛みたいな感じ。「持つ人」と「ある人」の分類がとても分かり易い。簡単に書くと「持つ人」は資本主義社会の構造に浸っているというか信者であるが、「ある人」はもう少し軽やか。知識を持つことを目的としているのではなく、知識をどう使うかの方に重きがある。どちらが良いかという話でもない。

 

愛についてはこれくらいで良いかな。結局のところ、何を詰めても良い言葉だから「愛しています」という言葉自体には特に言霊は含まれない。「月が綺麗ですね」というのも夏目漱石さんが言うから細君に対して具体的な波紋がある訳で。

 

どうでも良いが、僕が植物と波長が合うという評されを見たとき、ふと、かつての恋人さんとの恋人時代、友人占いに行ったら「彼氏、そうとうややこしい奴やな、云々」と言われたと言ってきたのを思い出した。確かに分かれば分かるほどややこしくはある。

 

ただ、感じは動かせなくても、振る舞いとか認識はどうとでもなるし、僕の見解はあくまで移りゆくものだから正しいとはしていない。読んだ人が勝手に考えれば良いこと。

 

kindle本。本屋で見かけてちょっと気になっていた「メタ思考トレーニング」。何故気になっていたかというと、この作者さんはどこかの古本屋(ブックオフだったかな)で買った「フェルミ推定」の人だから。この日記くらいの遡りならまだ残っている気がする。ミクシィにはないけど。

 

曰く、無知の無知(自分が正しいと疑わない)人はそもそも本を読まないから、本を読んでいる時点でそこからは離れているとのこと。面白い。メタ思考とは何ぞやというと自分の認識の死角に明かりを照らすような考え方であるらしい。

 

インターネット日記には当然潜在的な読者が居るという認識はメタだだが、自分が書きたいように書いたら読まれたいように読むのが当然だというのが無知の無知に陥っている人。

 

具体的な問題の1例としては、「ドローンについて調査してください」っていう仕事の依頼があったとき何をしますかという問い。

 

これに対してまずインターネットとか本で調べようとする人はhow思考でメタではないらしい。僕はまず、なんでその調査が必要なのかを聞くというということを思い付いた。聞けないであれば、仮説を立てるのがwhy思考とのことらしいが僕はそこまでは想定してなかった。

 

何故が分かるともっと良い方法があるかもしれないという思考法は、職場の先生から学習した賜物なのだが、割と本質的な話だと思う。

 

5W1Hというのは良く聞くが、この中で何故だけ次元が違うというのは概念の可視化として面白い。どう違うと思いますか。

 

 

 

 

曰く、他の概念は、今(厳密には時点か)についてのもので、単語で回答できるが、なぜだけは、原因という過去軸と、目的という未来軸がある線の概念だということ。何故何故問う奴は嫌がられるからほどほどにしておけという教訓もあったのが、人は自分がやっていることがなぜかってあんまり自覚されていないから、問われると煩わしいんよな、きっと。

 

なぜ僕を読むのですか、みたいに、なぜという問いかけって相手に丸投げする概念よな。ビジネスならともかく、個人間では原因の話になって、言語化されようがされまないがとはなるが。

 

僕は聞かれたら言語化できるくらいの準備はある。かつてはなかったんだが。もうそんなに不機嫌になることもないだろうな。

 

なぜを重ねることでどんどんメタ化(抽象化)できるというのも面白い。

 

なぜプリンが食べたいのですかって自分に問うたとき、ちゃんとした回答は返って来るのだろうか。なぜ二日酔いになるまで飲むのですかでも良い。

 

でも、安全圏で留まっている人よりは、境界領域まで自分をやっている人の方が好ましいな。

 

かつて素面の先輩の知人カップルと酔いどれ状態でローラースケートを履いて(履かされて?)転ばないようにあくせく動いているのを白けた目で眺められたことがあったのだが、あれほどひどい関係はなかったな。

 

メタ問題で、回転寿司以外の回転○○を考えよというのがあった。僕は木馬とぱっと浮かんだのだが、出題意図は、回転寿司以外に料理で回転して成り立つものは何かということだった。そういう意図なら、冷めても大丈夫なこととバリエーションだが、これってメタなのか。

 

訓練が足りてない。

 

こんな感じでおやすみなさい。

 

良い夢を。