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気になるは氣になるということらしい。ということは氣になる木。

 

帰っていると雨が降ってきて、田んぼに水が潤うとほっこりしながら折りたたみ傘を差した。急に降りだしたために傘を持ってなさげな人もいる。ここで、天気予報をどこまで信仰するかということを考えた。

 

僕は天気予報信者ではないから、折り畳み傘は常にカバンに入れているし天気予報でどうこうなる生活はしておらず、天気予報も基本見ない。今日はたまたま洗濯物を部屋に入れておいた方が良いかという目的で見たが、傘を持っていくかどうかって何パーセントで決めるのだろう。僕が毎日にしたのはいちいち見て考える煩わしさと、毎日持って行く重さと外れた時に持ってない不便を天秤にかけてどちらが重いかという無意識的な判断があった。

 

別に何パーセントだったら持って行くのかという統計的傾向はどうでも良いが、よくそこまで信仰できるなという気はする。ここでいう信仰の定義はそれに基づいて行動するだから天気予報が100%正しいと「思っている」という内心とは関係ない。

 

学校でいう置き傘みたいな意味で、社会においても公共施設にそういう制度を作ったら良いのではという発想をちょっと前(1月くらい)に読んだ本で見かけた。傘バンク。で、この発想を見た時に同じようなことが書かれているのをずっと前に読んだなと思ったら、たしかパイロットフィッシュというタイトルだったはず、読んだのは何年前か分からない。ちなみに人が管であるという発想もここにあった。割と男女の生生しい話だから省略。

 

この制度、とても良いと思うのだが現実化しないのは既得権益と、傘は個人の財産であるという観念よな。使い捨て傘業界が黙っていないというのと、学校だったらだいたい知った顔だからなんとかなっても例えば駅を利用している人なんてほとんど得たいがしれないから共用なぞできない。車の自動運転が捗らないのもこの辺りにありそう。メタ思考の本からの採り入れ。

 

前置き終わり。

 

朝に戻って、古木巡りの準備のため朝の一服タイムに、「古木 関西」で検索したところ全然ヒットしない。そこで御神木に書き換えて検索したところ、滅茶苦茶出てきた。

 

日本には八百万の御神木がある。思ったより東京が多かったが、東京ってそういう呪術的な立地の要素もあるというのを何処かで読んだことを想い出した。呪術的と書くと仰々しいが、風水的と書けばやんわりするはず。

 

さらに潜っていくと、世の中には御神木の専門家が居るということも分かる。御神木の触り方とか、感じ方とか書かれていた。なんとなく分かる。僕は木の触り方の作法はたぶん大丈夫。根を踏まないようにするという注意事項があったが、そんなこと気にするような存在なんかなという疑問符。まぁ尊重するのであればという感じか。他人の足は踏まないだろうという擬人化。

 

ともあれ、御神木の画像見てすげーなーとは思うのだが、別に僕は有名なパワースポットに行きたい訳ではなく、単に古い木ところに挨拶に行きたいだけだから、どこでも良いような感じ。御神木で言えば、神社がない街はないだろうし、木がない街もないし、そこまで特別視してないというか。パワースポットで言えば、この前行った岡山の日記で貼ったあの沢というか池はとても良く、名前があるとかないとかは関係ない。

 

という意味では熊野古道の名も知らない巨木にご挨拶というはとても良い。有名どころでは、北海道の銀杏(巨木の黄色の画像って滝みたいに見える)、やはり縄文杉、あと、沖縄のガジュマルが気になる。

 

あと、熱海が出てきて、熱海は良いけどある意味悲しい思い出込みだからなーとなった。この神社も行ったような気がする。悲しさは、一番長く過ごした恋人さんとの最後の旅みたいな場所であるところ。トリックアートの亀と接吻しているのもこの辺りのことで街の像も、バブル時代に栄えていたが今は廃れているとう哀愁漂う地だった。ただ、もう一回時間が戻ったとしても僕はこの人と関係が継続されるようには努力しない。気持ちと一緒に供養しておきたい場だから、行くとしたら挨拶ではなく巡礼になってしまう。

 

 

そうして、どれにしようかと考えているとき、最適解はどれかという方向ではないということに気付く。本当に行くところであれば今回行かなくてもいつかは行くだろうし、要は順番をどう決めるかというところでしかない。当日の自分の気持ちに任せてええわという自己愛。だって、どこに行っても楽しむし。

 

御神木はどこにでもあるとして、なんとなく滋賀県と石川県が気になっている。どちらかというと琵琶湖に挨拶行きたいなという感。俗っぽいところで言えば、動物園と映画館もあれば良いな。動物園は好きな人が行きたいと呟いていて僕も行きたくなってしまったがデートは起こらないからさっさと1人で行こうというもので、映画館は「夏への扉」。原作読んだのいつだったか忘れたが、どうやら原作依拠というより現代日本にアレンジしたものらしい。藤木さんは僕の顔が全盛期だった頃、似ていると評されたことがありなんとなく親近感あるし(余計な情報)。

 

さておき。

 

景色として書を見るというのは効用がある気がする。引っ張りだせる情報の水準を下げるというか、なんとなく見たことがあることも一般語用における記憶になるというか。

 

メタ思考トレーニングの本は終えた。最後らへんは流したが、具体的な生活的な思考の次元を上げると、いろんな共通点があるし仕事でも使えるという感じ。たしかにその通りだとは思うが、これって、自分も抽象化される諸刃の刃ではある。そういう風に考えるためにはまず自分が基準を恣意的においてないかということが問われる。僕の母親だったら今のところ無理だろうし、自分の恣意的な基準をアイデンティティだとしている人にとっては自分を壊すことだから大変だと思う。

 

ただ、ちょっと疑義もあって。無知の知と知的好奇心が同じようなものとして書かれているところ。これって別に連動してないよな。自分が知らないと知っていることと、新たな知を欲するかって全然別だと思う。知らないと知っていながら知ることを欲さないという人格は当然あるし、知ろうとしているからとて知的好奇心がある訳ではない。

 

僕は自分を省みて、別に知的好奇心はないよなって思う。知的好奇心って知らないことを知ることに対する快感ということだと想像する。子供の価値観。僕は快楽としてではなく、生活としてやっている。あんまり言語化がうまくいかないので省略。

 

最後。芸術学を読んでいると、「ありのままの自分」ということに対する施策が浮かぶ。

 

「ありのままの自分」って操作がない自分ってことなのだろうが、この自分って、土台は自然だったかもしれないが、その後の自己観に至るまでにはせっせと意識無意識の自分が作り込んだ建築物みたいなものだろうなって。

 

建築物と自分が自分であることの共通性は、簡単には改変できないこと。

改変できない部分を関係している相手に丸投げするのも同じかもしれない。建築物は建っているから、それを前提に人は動くしかない。ありのままの自分を受け入れるのが愛だと思っている人はそれに応じた相手の動きを当然とする。

 

僕は自分が自分であることという存在が、砂上の楼閣に過ぎなかったと気付いたから一回水に流したのだろう。これが最近。今や自分が自分であることは建築物ではない。

 

建築物が美しいのは、ちゃんと意志が通っていて目的があること。

勝手に出来上がった人格を自分とするのは何か違う。

 

自分を建造物とするのであれば、ちゃんと細部に意志を通わせないといけないと思われる。

これをしようと思ったら膨大な材料が必要になるからきっと誰もやらないだろうが。

 

もちろん僕の話。

 

本を、誰かを真剣に読むって今の自分が崩壊されうる覚悟をもって接することだよな。

積み直しができないようにされているのが今の社会。

 

どうでも良いが、現実生活で人の意識の導線みたいなものが感じられる。昼休憩の時に公園に行ったとき、この人はあのベンチを狙っているのだろうなというのは歩きぶりで分かるし、エレベータとかスーパーでの人の意志的動きは分かりやすい。分かり易くない?

 

人の歩き方とか行動指針とか発言の変化とかって観測していると面白い。

これは当然自分のそれも鏡になる。

 

僕が本を読むのは、僕が認識できなかった日常を鮮明化させるくらいの意味。

日常で見えてないことってほぼ無限にあるからな。

 

では、ミクロなのかマクロなのか分からないところでおしまい。

 

おやすみさない。

 

良い夢を。