mudai

 

 

未来の自分との待ち合わせ場所に向かうためにアラームより1時間以上早く目が覚めた。今の僕に寝坊はありえない。刑法各論の専門書を1冊流し、朝シャワーで寝汗を流し、蕎麦と梅干ご飯の朝食と優雅に過ごして、ぎりぎりでインナーのTシャツがなかったためインナーは肌着に変更し、淡いピンクシャツに急遽アイロンがけをしたが、全然問題なく予定通りに出発できた。自分で自分を嫌にならないための試行の賜物。

 

しかし、電車に乗った後、ふと、今日自分が土曜出勤の日だったのかもしれないという観念が浮かぶ。昨日帰り際同期が出勤だというイメージは残っているが、僕は自分で自分の信用を無くすようなことまれにやるから信用には足らない。

 

色々状況証拠を積み重ねる。社員の人数が何人で月末月初の土曜日だけとすれば、今日の出勤なのはスパンが短すぎる、出勤の前日は上司が明日よろしく、みたいな確認の声かけをするなど。でもこれって、完璧な証拠にはなりえない。自分の日記で「土曜日」で検索して、前の前の出勤まで遡った記録を遡るのも気休めだとしても、初めて自分の記録が役に立った。

 

現実的な証拠としては、職場からの着信がその時間に鳴ることで、その時にはもう滋賀県なんだよなとまさにその時までヒヤヒヤしていた。ただ、アイロンのコンセント抜いてないかもしれないっていう不安感とおなじようなものなのだろうなという俯瞰もあった。自分の中では実感だからどうしようもないところはある。現認しないことには安心できない。

 

結局今の時間まで1度も着信がなかったから、たぶん大丈夫だったのだろうとは思う。

あくまでたぶんだが。

 

その時間が過ぎて暫定的な安心とともに未来の自分と落ち合う。何年ぶりかに映画館に行ったが、ほぼ貸し切り。僕を含め4人ほど。なんとなく習慣でペプシとポップコーンのセットを買ったが、ポップコーンでかすぎ問題。ひたすら食べ続けて映画の終わり際に食べ終わった。映画が娯楽ではなくなっているのだろうなという感。

 

映画の話。ほぼほぼオリジナルだった。原作で残っているのはピート(猫)と、光るフレーズ。そうそうこういうカッコイイ猫だったなと思い出す。オリジナル要素も良き。ほどほどのサイエンスフィクション。30年後が2025年で、コールドスリープ前の音楽がミスチルのcross roadとか。一番長く過ごした恋人さんと遊びにいったときに弾き語りの人が歌っていた曲だった。道の交差か。

 

映画は舞踊だっていうのが思考する身体だが、僕にとって映画は速度が決まっている読み物なんよな。世界は読むスピードが決まっていない読み物。読み物の定義は客観的にその作品がある訳ではなく、僕とその作品の共同作業によって作品が決まるということ。詰まらないのであれば詰まらなくしか読めない僕の責。主人公のサインが英語なのはまぁ良いとして、車のナンバーも英語表記で、作中の世界の公用語って英語になっているのかとか読める。ストーリーには全く関係ないが。

 

そうそうに話は読めたのだが、タイムマシンで過去に行くという理論のパラドックスの解釈はしれっと描かれていて、なかなか面白ろだった。時間は循環しているから逆回転もできるみたいなやつ。時間が戻せないとルールはあくまで人間がそれを実感しているだけで、世界は人が同時存在していることも許容するくらいの器はあるような。同時存在できないのは世界ではなく当人の意識では。

 

あと、ヒューマノイドの藤木さん。我ながら目が似ていると思った。のはともかく、今で考えても最高峰のAIもともかく、人間のカタチでも、人間ではないと認識されるのって演技でできるのだなと。エキストラの方々も上手かった。普通と違う現象を見かけたとき、AIには判断できないから、ただ、その対象を見る。そして日常に戻る。

 

でも、これって普通の人間の所作でもある訳で、何が違うのだろうな。

 

 

映画の解釈はもっといっぱいあるが、まだまだ先があるので省略。

でも、時間はループしている説はとても実感に合う。

 

映画が終わったのが昼前で、やっとこさ琵琶湖とご対面。雨という予報はやはり嘘で、良い感じの曇り空だった。気分に任せて歩いたあと電車に乗る前に確認すると、動物園は反対方向だった。ここから未来が捻じ曲がる。

 

最終目的地は琵琶湖の北辺りだから、その途中にそういう施設がないかと調べると、あった。次の目的に向かう。前に、コンビニで水分(ビール)補給。店員さんに「おおきに」って言われてほっこり。こちらこそおおきに。

 

文明の利器のルートナビ凄いよな。分単位で同期されている。そうして目的の駅に着き、バスに乗って、8駅。バスって結構危機感をもたらされる公共交通機関。初めてだと、1駅がどれくらいかかるか分からないし、今回のバスはICOCA導入されてないから今ある小銭で大丈夫か、両替のタイミングは如何。とか。

 

ナビに従って降りたバス停はふつーの住宅街で、生活的に使っているだろうお婆さんがこのおっさんなんでここで降りたんだと、ヒューマノイド的な反応をしていていた。田んぼを通り抜け、森の中の道にある民家を過ぎ、目的地には着いた。

 

しかし、閉まっている。ここで残念という感情は浮かばない。なんなら、ここに時間使ったら巨木間に合うのかというところと、動物園はほんとに1人で行きたいところでないしなというところで、上手く調整が働いたのではという感じ。道中が目的だから問題ない。

 

僕はひねくれ者だから、同じようにバスで帰ったりはしない。時間に余裕ができたからもっとこの街を歩く気になる。ここまでは誰かと一緒に行ける領域だが、ここからは無理。

 

歩道がない道路がまず危険。人が歩くように作られていない。なので田んぼのあぜ道に入る。あぜ道は、ちゃんと通り抜けらる道なのか分からないから、かなり怖い。くさぼーぼーで、竹が割れる自然音を聞きながら歩いていると、ライダースーツの大型バイクを運転する人がやってきた。僕は何かの巡回かと身構えたのだが、何事もなくすれ違い、なんぞ、ワクワクしそうな道に入ってきた同志かとあとになって想う。

 

道って、誰かが踏み馴らして整備してくれるから通れるもの。

 

次、やっと古木で、天の羽衣を掛けた柳に行ってみた。ここの湖は琵琶湖よりも好きかも。琵琶湖は波打っていて海みたいだった。生活対象なんだろうな。この余呉湖は、ほんと閑散としている。おそらく遊歩道だったろう道もくさぼーぼーで、しかも、どれがその柳か分からない。

 

ここでフィールドワーク的な思考。行政の観光産業は慈善事業でないのだから、それにまつわるお金を落としてくれる対象としての飲食店とか土産屋とかが開けない限り、整備する動機はないんよな。マジでいろんな意味で怖かった(ここ歩いている不審者と不審者と見られないか、あるいは自然の脅威)。

 

でも、個人的には名前があるかは関係ないから、それっぽい木達に挨拶して回る。ある木には、蛇の抜け殻が付いていて、営みを想う。

 

地方のJRを舐めていた訳ではないが、僕は電車時間に左右されたくないから確認しなかったらトータル3時間くらいは駅で待つことになったのでは。絶対誰も付き合えない時間。

 

そうして、最終地点。

 

地方のJRの2駅の中間に在るらしく、本来は徒歩で行くルートでなはないはず。レンタカーの運用を本気で考えているが、だったらお酒が飲めないんだよな。

 

で、異界の入り口みたいなところを過ぎながら歩いて、ナビの指示に従った先には何もなかった。GPSの誤差かと思って何回も行ったり来たり、グーグル先生の情報と照合したりした。

 

で、よくよく見たら、もうそこにこの巨木は無かった。大神という石碑がなかったら分からないが、切り株と名前が付けられるようなカタチも残ってなかったが、ちゃんと触れてみた。

 

どういう経緯で無くなってしまったかは分からないが、この名前が付いているということは、信仰対象だったはずで、ここの駅の名前も木ノ本で。

 

ここで触れさせてもらった感動は、「悲しさ」だった。

この木が切られていてカタチが見られなかった残念なんかではなく、ただただ悲しい。

 

木のために泣ける変人。

厳密には、木の悲しさに同調できる変人か。

 

そこから歩きながら、このメッセージってなんのだろうなと解釈していた。

 

まだ遅くないことはどれだけあるのか。というのも自然と人との邂逅の違いを考えていて、自然は動かないから自分が行くだけで接することができるとしていた。

 

で、人と人の邂逅を考えると、人って関係か目的がないと他人と会えないよなと。

これは全然悲しいことではないが、この枠で捉えた人って、誰なんだろうな。

 

感動って他人事的なエンターテイメントっぽい結婚式とか告別式の話っぽいが、本当に自分が動いたときには、あー良かったなって日常にはすぐ戻れない。

 

今日は試みでリアルタイムで画像を貼ってみたが、この貼る行為って、単なるお裾分けみたいなことで、共感して欲しいことはまったくない。

 

文章も然り。

 

芸術はアピールだというフレーズを見たが、あぴあーって、顕れるという意味しかなかったような。

 

触れた右手に何か違和感がある。

 

はい、おやすみなさい。

 

良い夢を。