てつがく

 

 

母親から「産んでしまってごめんない」と言われる夢。別にショックでも余計なお世話じゃにもならず無感動だった。姉は実際この人に「あんたなんて産むんじゃなかった」と言われたらしいが。僕の解釈は省略。反面教師にして、僕と出会ってくれてありがとうとかこの時代に生まれてくれてありがとうとか思うようになった。姉は自分のことを産まれて良かったと言ってくれる人には出会えたのだろうか。

 

僕が冒頭の発言について何も思わなかったのは、自分の中でこの世界に肉体をもって生まれることが当たり籤(くじ)なのか外れなのかを決めかねているから。でも、時間を生きられるのが人間としての肉だけとすると、当たりなのかもな。動物も時間を認知していると観測されることはあるが、これってバイオリズムと生活リズムとしての時間であり、思えば自分は何年生きた、という認識ではない。これとは別に僕が僕にとって当たり籤だったということはそろそろ認めるところなのだろうな。一瞬出てきた余計なお世話だという言葉は、他人に自分を認められる必要がないという反骨というか自然なのかもしれないし。

 

無感動で家の下から出ると、桟橋に拡がる溜まりないし池だった。対岸の木々の枝で知らない野鳥が求愛行動をしていた。父親があれは求愛行動なのだと教えてくれたので分かったのである。そんな中、夢の中の僕は「家を出なきゃ」となり引っ越しの準備をして出る。その時、何故かやたらと人をこばかにしてくる中学校の同級生男子が出てきて何かを言っていた。とても苦手な人だった。僕の時系列、人より優位であることで自分を保とうとする人がやたらと居た。

 

現実の光景が増えると夢の光景も増えるのかもしれない。連動しないとしたら、あんまり現実を生きていないのではというのは、言い過ぎか。

 

夢の後半は、一変し、「大丈夫だと思った」と言いながらゲイの人に襲われそうになる。そんなゲイおらんじゃろと思うが、これはちょっと経験とも繋がっていて、なんとも言えない感じ。大丈夫だと思ったとか合意があると思っただけで物理的な行為に至ってはならない。この文脈では言葉はギリギリ非現実。

 

本日の仕事では、やたらと僕を指名してくる女性が居た。指名制というはないのだが、割と話し込んでしまったから他の人が続きから対応するのは難しい。僕はこの人結構苦手。沸点低いし他人を道具にしている感じがある。「専属で」とか言われたが、認められているのではなく、都合の良い人物認定な感じ。まぁでも、認知できればそんなにエネルギーは消費されない。

 

さておき。

 

アラームより10分早く目が覚めたため、ふと「哲学とは」という質問をグーグル先生に投げてみた。すると哲学者さんの連載記事が返される。「哲学とは物事の本質を知性によって認識しようとする営み」、「哲学と宗教の違い。宗教は神話によって本質を呈示するが、哲学はたしかめ可能性を呈示する」。うん、僕の生活的日記的思考だった。

 

そもそもは、身の回りにある常識とか当たり前(感情も含む)というところから来ている。20歳前後の時からずっと考えていた。心理とか言葉とかについてはまぁまぁ言語化していたか。言葉については箱であるという説から、今は、日常においては人の言葉を信じざるを得ないという観念はどうしてかとか。

 

さらに色々言語化できるほど表層になったのはもっと後。あんまりこういうことを考えているって現実には恋人さんにも言えないし。最近自由になってだいぶ遊べるようになったところ。僕の日記をずっと読んでくれている誰かさんには分かるかもしれないが、1年前の日記はもっと重かったはず。当たり籤だと思えるようになったのも、こういう思考で遊べるようになったからかもしれない。

 

こういう感じになって、ふと、なんだか毎日走馬灯を生きているようだと観測される。だからといって、過去に引っ張られて現在を蔑ろにするわけでも無く未来に安心を求めることも無い。5月終わり辺りから、時間の流れが滅茶苦茶遅い。仕事時間は早く終わるがその前後の時間をちゃんと過ごしている感じ。別にぎゅうぎゅうに詰めているわけでもなく認識の凝縮というか、わりと緩い。よくにやにやしているし。

 

ずっと昔の1人の男の子が出てきた。別に何時かの同級生でも何処かも定かでないのだが、なんとなく僕はこの人を尊敬していた。おそらく年上だったのだろうが、病気か何かで成長が進んでいない、とても小さな人だった。何を話したのかも今は出てこないが、達観している感じ。いつかもどこかも分からない人物との邂逅なぞ幽霊みたいだが、過去の記録としての人物との会話は自分しか証明できないのだから、他人にとっては全て幽霊みたいなものだろう。これを自然に実存とみなせるところに言葉の強制力がある。この辺りを哲学中。

 

なんかほんと好きだったのだなという感じだけが再現される。

今は生きていないような気もして、ほっこりと悲しみが半々。

 

もっと現実寄りな走馬灯としては、季節柄。実家の辺りは普通に蛍が生息している場所で夜道を蛍を眺めながら歩いているシーン。真っ白で裾がカールしている蛍が入ったら電球みたいになりそうな花ってなんていう名前だっけ。とても上品。同じ道でも季節が変われば彼岸花の真紅になったりして。

 

あと花火か。何人かと何か所かで見た走馬灯。

浴衣は良いよな。と、走馬灯を表現し出すと本気の本の話と同じく終わらないからやめておく。

 

ちょっと未来の話。

 

熊野詣のスポットは決めた。「夫婦杉」と呼ばれる樹齢800年の先輩方が居るらしい。パートナー居ないのに自虐かと思ったが、パートナーの本質は、社会的安全にも心理的安全にも関わらないところにあると捉えているから、今のところ羨ましくもなんともなくなってきている。婚姻は契約というパッケージだし、他の現実的なパートナー観もなんらかの委譲みたいなところだし。今のところ互助組織も全く要らないな。

 

いつ行くかって、きっと今週末なんだろうな。

移動費とビール代とコンビニおにぎり代くらいしかからず、誰かとちゃんとしたご飯屋さんで1回飲み食いするくらいの費用で行ける。日常生活で外食費はほぼない。本日の優しい酢鶏(レシピはてきとー)も美味しかった。

 

こう考えると、交友費用ってめちゃくちゃ経済を回していたのだろうなと思う。

今はそういうのが減って外食産業とか大ダメージだろうが、僕が地方に行って人を眺めたフィールドワークだと、割と皆牧歌的に見えた。不必要だったのではなんて言ってはいけない。(地方のご飯屋さんは結構賑わっていたが)

 

僕は別に、自分の考え方が正しいとは思っていないし、人の考えも正しさとして採り入れる訳でもなく、ただそうだとして採り入れる。この採り入れる所作が肯定であり、肯定しているけど許容しないということは背理よな。

 

そろそろリベラルアーツも終わる。歴史を見ていると、戦争によって失われた知っていっぱいあるんだろうなと想う。アレクサンドリア図書館に行ってみたかった。ただ、どの時系列でもよりよく生きるにはどうすれば良いかって考えていた人が居たから、現在安穏とできるということなのかとなると、自分の血筋より人類筋の方がありがたいよな。

 

まぁ、僕は一応色んな単位で物事を考えているが、全体的にどうしたらよりよく生きられるのかみたいなところはない。それぞれの個人が決めたらええんではという感じ。僕を読める人は何か自身に想うところがある人なのではと思った時期もあったが、今は、単なる読み物として面白く読める人も居るのかもしれないとなっている。

 

哲学的思考における人の本質としては、何処まで動物的、社会的な人間論から離れたところで遊べるか。五官の中で一番人間的なものは味覚だと思う。視覚、聴覚は自分がしたいようにはできないが、自分の口に入れるものは選べる。味が美味しいからってなんでも食べるのは幼少期の所作と同義。触覚も任意っぽいが、任意ではないところもあるし。

 

これを読んでいて、実際の僕に興味を持つのかって、無いよな、たぶん。

ちなみに、実際の僕は言語化しているようには発話しない。機能が全然違うから。

 

ヘーゲルさんの精神現象学の上巻は4回目くらいなのだが、本質は全体だとか言っている。確かに全体像に本質は宿る気がするが、それを踏まえた細部を見るのも楽しいよな。本日も丁度良く体に馴染んだ服を着ている女性に視覚が向かうと、サンダルから覗く赤い爪という細部がとても良きだった。

 

いきの構造は2回目。この人ハイデガーとかベルグソンと同じ時代に生きた人だとあとがきで知り、なにやらすげー。

 

結局のところ、哲学って個人の中で検証するものだから、誰かと共通項があるから良いとか、ないから悪いものでもない。これを国家レベルにしたカント、ロック、モンテスキューが受け入れた土壌はなんなのだろう。思想的に採り入れやすかったのだろうか。

 

と、考えていくと、僕個人としては公に認められる哲学の方が偉いとはならず、ちゃんと考えている文章が等しく美味しい。ちゃんと考えるの定義も良く分からないが、おそらく自分が都合が良いように思考を操作しないということだと思われる。

 

今日はここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。