境地

 

 

今日の雨は本気で容赦がなかった。靴もスラックスもぐしょぐしょで、新聞を詰めたりなんだりで後処理が大変だったが、この手間が増えることと好きなことは全然連動していない。別に何かを返してくれることもないが、昼間の公園の池に無慈悲に降る雨。帰りはYシャツの右だけ袖をまくり傘から出して触れ合ってみる。良き。

 

地方によっては大変みたいだが自然って本来これくらい怖い存在。これを「怒り」と捉える人間の感情も分かるところである。畏敬は畏怖とセットだが、この意味でいうと自動車も怖い。自分が退場する可能性はともかく、人を容易く退場させる力を持つ道具を日常に含ませるのはかなり恐ろしくないか。よくもあんなにびゅんびゅん飛ばせるものだ。

 

さておき。

 

仕事では先生が一回目の翌日に体調不良で来てすぐ帰った。歩く速度があきらかにおかしかった(いつもは普通の人よりかなり早い)からどうかと思ったが、やはりしんどいとのこと。なめていたとも言っていた。この流れで母親が本日2回目と言っていたから、なんとなく仕事が終わってから電話すると、たいそう喜ばれた。僕はひねくれ者なので、この前、どうせないと思うけど心配ならかけてきても良いやで(ちらちら)と言われたことで、この行為になった。まぁなんともなくて良かった(素直)。

 

ちょっとここで思うところがあるのだが、とりあえず後回し。

 

インターネット世界で文章を漁っていると、「私をはなさないで」ってやはり「約束のネバーランド」の種本になったという噂があるのかと知った。全然知らなくて、雰囲気から繋がっているのかなというのはあったが、他の人でも感じる人は居るのかという感じ。僕は小説の方はもっと広く社会の寓話性を感じる。不安を煽って来るというか、当たり前の地面が薄氷だったと気付かせされるというか。主人公は微妙にまぐわい依存症みたいなのだが、この繋がっている感も不安を煽ってくる。この2つの作品時系列的にはどうだろうとふと思ったが、僕は別に自分の感じを検証して正しいものとすることには衝動は向かわない。

 

ここで哲学の連載記事。全部読み終えたら、続きは「初めての哲学的思考」を買って下さいという宣伝だった。のはまぁ良い。この人のもっと専門的な本を読んでみないと相性は分からない。と思ったら既に読んでいたりするのかもしれないが。

 

哲学が自然科学に派生したのは良く知られた話。神話への対抗だったのかは定かでないが、万物の本質はなんなのかを実験器具がない世界で思考だけで考察する。水だ、火だ、アトムだという発想から自然科学の実証的手法の発展により、今の世界観があるとのこと。

 

面白いのが、科学が考察しているのは「事実の世界」で、哲学は「意味の世界」を見ているという話。人間は事実の世界に生きているというのが科学の考え方で、この事実って分かり易くて良い。リンゴが木から落ちるのは重力だと知っている人の間では容易く共通理解に至れるという意味。ただ、この事実って現象のありうる「意味」の1つでしかなく、何を事実として検証するかというコンセプトは意味の世界が前提になっているとのこと。

 

これを読むだけやっぱりそうだよなと思うのだが、どうだろう。僕は哲学は専門的に一切学んだことがない独自というか在野でやっているだけだが、可能性的ものさしで生きているなと思ったのが2年前くらい。

 

意味という言葉の意味ってわかりにくいが、もっと分解すると解釈ということ。○○を事実とするときには、○○と事実を結びつける道具ないし媒体が必要であって、それが解釈という思考作用。で、解釈の数自体には制限はない。これが共通理解の多い領域になると「普通」とか「社会通念」とか「当たり前」とかになるが、ニュートンさんが木から落ちるリンゴという現象を見て、単なる自然ではなく何らかの力が働いていると意味付けたことから現代物理学が始まった。天動説が地動説になったのもきっとそんな感じだったのだろうな。

 

要は、「事実の世界」で生きていると思っていても人は「意味の世界」も同時に生きているということ。むしろ、意味の世界を事実の世界に引き直して生きている人の方が多いのかもしれない。

 

この哲学記事では、「一般化の危険」と「問い方のマジック」というのがあったが、とりあえずは前者。これも日記で常々書いている気もするが、自分の経験則を一般化することでそれが事実的に正しいのだってしてしまうことはとても危うい。確かに、生きれば生きるほど経験という事実は増えていく訳で、その事実に依拠するのは当人にとってとても省エネになる。人は楽したい動物だし、僕もこの年になってそういう力を否応なく感じる。解釈ってエネルギーを使うことだから、なるべくしたくないのが自然。

 

別に経験則を自分の中で一般化することは問題ない。その人しか経験できなかったことだし大事にしていい。ただ、一般化の延長は正しさであって、正しさというのは他人もそれをやってしかるべきという道徳化が行われうる。最近の若者はとか、昔はもっと良かったとかそんな陳腐な言葉になるが、こういう人が周りに居るとたまったものではない。

 

当人の中での一般化というのもその経験をしたときよりも今は時代が進んでいると考えるとそれほど依拠できるようなものではないのだが、他人にそれを強いない限り当人の自由ではある。

 

後者は、イエスかノーかの質問で問われると、回答は2択しかないという前提が生まれるという話で、クローズドクエスチョンみたいなこと。哲学はそういう問い方をするものではないとか。これは人と議論するときよりも、自問自答するときの話だろうな。僕はあんまり自分がなんでそれをしているのかについて考えることはなくなった。まぁそういうもんじゃろなとしている。

 

そういえば、帰りに雨が降っていて、電車の車窓からの雨が見たいと思い電車を使ったのだが、人が多くてそれどころではなかった。駅について何気にふらっと本屋に寄ったら「生物学的にしょうがない」という本があり、ぱらぱらとめくる。「浮気してしまうほどまぐわいが」はい飛ばして、

 

「嫉妬してしまうのはしょうがない」。曰く、共同体における資源の分配が不平等であることに対する感情で、それに気付いた分配者が、再分配してくれるために必要だとのこと。

いや、分かる。確かに、僕にもこういう感情の経験はあり、近しい人が自分よりほかにリソースを分配しているときに、自分にもって。ただ、これってだからしょうがないって思ってしまって良いことなのかという疑問。

 

言い過ぎかもしれないが、この言語化で納得できるのは、生物がどうのより、人間的には赤ん坊くらいの感情ではなかろうかとなった。これって、相手を見ている感情ではないよな。自分にとっての誰かへの感情。この関係で良いのならそれでいいと思う。別に僕は他人の選択は知ったことではない。選択にまで関与できない尊重すべき等価の存在と見ているから。

 

こういうのが市販本にあるのかとちょっと愕然としたが、まぁ良いとして。

 

口直しに刑法の話。ちょっとだけ専門的になるが、犯罪とは何ぞやというと、一般的感覚としての「わるい行為」ではなくもう少し進んでいて、構成要件に該当する違法で有責な行為となる。

 

これは、国家権力が、恣意的に犯罪を決めないようにするという抑止力のために細分化された概念で、犯罪行為の類型としての構成要件と、正当防衛とかの違法性はともかく、最後の責任がとてもやっかい。「非難に値するか」ということで、個人的関係における非難可能性であれば、関係の中で決めれば良いが、国家レベルとなると、難しい。今読んでいる本では「人に自由意思はあるのか」という論争が書かれていてとても面白い。そうそう、こういう話が読みたかったんだって。生物学的な原因での行為は非難に値しなくて、規範的理由の行為は非難に値するという学説があったが、こういう文脈で、心神喪失状態における犯罪行為が漏れるのだよな。細かいのは省略するが、刑法学者でさえ、人の行為に自由意思はない(今のところ証明不可能)と捉えているのがとても面白い。

 

別に個人的に自分が自由だって思うのはいくらでも解釈できるが、自分の行為が、何にも支配・影響されていない任意とほんとうに言えるかどうか。僕は巨木巡りとはほんとに任意だとしている。事実的には何も動かない行為。自然に向かったからって僕が事実的に癒される訳ではない、他人には検証不可能な領域。

 

だからこそ言語があるということか。

 

芸術学の本で、人は媒体(芸術・メディア)で人に伝達しようとする意図がある情報があるが、伝わる情報は意図した情報そのままではなく、意図していない非媒体的なものも含まれていて、一致はないということだった。確かにそう。意図したように人には自分は伝わらないし、他人の意図通りに自分へも伝わってこない。

 

ここで見た時、僕の経験則上、なんだかありがたがられることが多い。特に会話が上手い訳でも発話をして場を回す訳でもないのに。もちろんこういう哲学的なことも言わない。誰かにとって自分がどういう存在なのかってよくわかんない。

 

で、本日の母親との会話で嬉しそうにされたとき、僕はこういう現象が好きなのかもなと感じた。別に事実として何かが返って来るという連動はないし、自分がそれをすることで満たされるという奉仕的精神とも違う、嬉しさの収集。

 

僕の日記もそういう風に読まれているという感じがあるから終わらないのかな。

これが愛の範疇だとすると、僕の愛の範囲は対個人ではないような感じ。でも別に僕の哲学と共通項があるから良いとはならず、たんなる共時性。対個人に絞ったとして僕の愛を受け止められる器がある人物が想定できない。笑

 

というところと不謹慎はまま連動していて、僕は現世での苦しさはあんまりないんだよな。何か別の対象にもたれることで自分が保たれるという感覚はない。もっと読んでもっと知って、そうして退場するという境地。

 

僕を読んでいる人が、少しでも楽に生きられればなって勝手に祈る。聖人なんかではなく、狂人でもあり、星人でもある。

 

この境地を誰に遣って良いのか。

 

では、おやすみなさい。

 

良い夢を。