貫禄

 

 

かなり楽しき1日だったんのだが、帰りの電車の雑談という雑音で一気に現実に戻ってきている。今度からこの意味でイヤホン要るな。人って後ろから歩いてくる人に気付かないものなのかと思ったのだが、一般的に現実って別にそこまで外界に注意向けなくて良いからか。

 

外界に研ぎ澄ませていると音の情報も構成物だが、雑談も自然と入ってきてしまう。地方の生活道路でイヤホンなんかしていたら危険極まりないし、自然の音も聞き漏らす。

 

おそらく20分ぐらいだったが、2人とも言葉が尽きない。言葉が尽きない人格って話し好きっていうより、なんか間を持たさずにはいられないというか、もっと言うと、何かほんとのところに届かせないように威嚇しているのではと見える。何が不安なのだろう。だいたいこの期間で、この2人の関係(同僚)とか、恋人関係とか、どういう性格なのかの事務情報は分かった。同僚でこれだけ会話していて、なんとも公転的な会話をしているものだ。まぁ、雑談って、字のごとく雑な談話だから会話が尽きない人はそういう雑に遣える語彙がたくさんあるのだろう。たぶん1週間後には何を相手が話していたかなぞ残っていなさそう。

 

臨月になった夢を見て、心臓よりお腹が大事だと思うことなんてあるんだという発言は、相方には良い話ですねーみたいに言われただけだったが、なかなか本質を突いていてるような感じがした。手放しに大事にできる存在を欲しているというか。

 

雑談の目的は時間つぶしにあるとしているが、もっというなれば、表層的な親密感が目的とされてそう。でもこのフィクションというか神話性があるから、人は人と近くなったと思い込める。

 

個人的な今の見解だと、人は人と一生近くなれない。だからこそ近づこうとすることに意味がある。本に引き直すと、一生新しいページが更新され続ける存在。

 

さておき。

 

朝起きて、さて夫婦杉と検索してみたら、片道5時間。おふ。地理情報不足。これから出発したら本日返って来られなくなる。そうだ、四国の電車も海岸沿い通るからやたらと時間かかるのだった。5時間となると、母親が住んでいるところに付きそうな移動時間。始発か泊まりではないと厳しい。ちょうど再来週に連休があるからそこで行くか。

 

ということで未来が変わる。本日はあんまり孤独にはなれなかったが、何処にでも1人は居るということに貫禄を感じる。

 

近隣でまだ1人で行ってない奈良県に絞り巨木で検索すると電車で2時間らしい。今や2時間くらいであればすぐという感覚。近鉄電車ではなく南海電車だった。大和二見駅についたのが1時くらいで、トイレが綺麗で感動した。まぁ、観光ルートだからだろうが。コンビニを探していたらスーパーが見つかりとりあえずビールを一本購入し、ベンチに座って灰皿の横でタバコを吸っていたら、お爺さんがやってきて話しかけられた、全然要領を得なかったが、今日が暑いということと、煙草に投資してきた金額が2000万円だとか。僕という人っぽい存在に相槌を打たれて満足そうだった。僕はこういう人結構好きかもしれないなと感じた。人の話あまり聞く気がないが、特に毒がない。ただ、今考えると、雑談の括りって、何かキャッチボールが成立しているように見えたとしても、こういうものだよな。

 

僕はこのお爺さんのTシャツに付着しまくっている白い毛に、猫の存在を感じ、ええなぁと想っていたのであった。

 

そうして、やっとちゃんとした巨木の存在に対峙する。お寺なのかは知らないが閉まっていたため、塀越しだったが、なんだかむずむずする。「いのち」と名付ける人もいるかもしれないが、僕はあんまり名前を大事にしないから、むずむずのまま一礼して、観光ルートに戻る。

 

かなり閑散としていて、商店街も開いているのか閉まっているのか分からないが、観光っぽい人はぽつぽつ居る。なかなか魅力的な路地がたくさんあり安心な迷子が選び放題。路地は人工物だから、だいたいはどこかに繋がっている。ただ、猫町みたいに異界に繋がることもあるから気を付けないといけない。、まぁそもそも、誰かが過ごしている時間と空間ってほんとは全部異界ではある。言葉が通じるから同じと錯覚されているが。

 

そうして、奈良行きの電車に乗り、色んな異界を垣間見ながら進む。いかにも若者という服装を着た人達が乗ってきて、2駅先で降りていく。何かのライブでもあるのかな。そのとき1つ開けて隣に座ったギャルの足がふと見えて、足の爪の赤が、良く見ると剥がれている部分が所々にあり見てはいけないものを見てしまった感。良く知らないが、頻繁に塗り直さないと綺麗を保てないのだろうなという想像。

 

ここで生活している高校生も乗ったり降りたりしていていて、ちょうど正面に、この子美人に育つだろうなという人が座っていた。単なる目の感じの印象だが。まぁ美人に育つことが良いことなのかは知らない。それよりもその子のちょっと離れた横に座っていた男子が、勉強し過ぎなのか動画の見過ぎなのかは知らないが、プリントを見ながら寝落ちしてプリントを落としてしまった。反対側のちょっと離れたところに座っていた女の子がそれを拾ってあげて、起こさないように男子の横の座席のところに置いた所作が美しかった。いい子。みんな頑張れ。

 

ほんとは、奈良駅から御神木に寄って帰るルートだったのだが、電車に乗っていることにダレてどこかで一回降りたくなってくる。ちょうど、調べている時に気になっていた駅に着き即降り。天理駅が気になっていたというよりは、この単語から中学校の同級生の女の子を思い出していたからだった。別に美人ではない。笑うともともと細い目がもっと細くなる。この笑顔と、中学生時の思春期真っ盛りにも関わらず普通に会話できていた印象と。

 

当時、当人に聞いた訳ではない単なる噂で、天理教の家だとか。その頃宗教って得体の知れない存在だから触れられなかったが、そのままやっているのであれば、この街に居る世界線もあるかもしれないって。僕の時系列、というか誰の時系列でも改めて対話したい人なんてほとんど居ないだろうが、僕はこの人とは話してみたい。

 

残念ならが時空は越えられなかった。対人で時空を超えることは本とか意識とは勝手が違う。まず、それぞれ生活があるし、「ただ対話する」という時間も場所も基本的には用意されていないし。

 

ともあれ。この街は面白かった。僕は天理教の教義については全然知らないのだが、雰囲気的に宗教都市だった。宗教と学校が結び着くのはどうかと思ったが、歩きながら考えていると、宗教と社会とか国家の違いって、規模くらいの意味しかないよなという発想が浮かぶ。その中で生きている人が自分に満足できるかという問題でしかない、ということからすれば、社会とか国家の方が劣っているとも評することができる。

 

要は、建前ではなく、本当に幸せなのかという問いに対する答えは民主主義も個人主義も資本主義も持ち合わせていないが、宗教は少なくとも真面目にそこを見ている。まぁ僕は幸せという観念自体に疑問を持っている立場なので、幸せとはなんぞやみたいな観念的な問いはどうでも良い。

 

この街には石上神宮というものがあったが、これってほんとに神道のやつなのか、宗教アラカルトかと通り過ぎた。で、この辺りで16時。歩き足りず調べたら、近くに滝があるらしい。「徒歩50分」。毎日毎週末歩いていて、これくらいは近くなった。体力だけ付けてもこの感覚には至らない。毎日の動きを自在化させるなら訓練としてはきちんと歩くで十分。

 

 

まぁ、僕は汗をかくのも歩くことで移りゆく景色も好きだから、ただ疲れるために歩いている訳でもない。蛍の下りの白い花、一輪だけ咲いているの見かけて、びっくりして満開の笑顔になった。時空超えた感。

 

滝まで行く道のりも面白い。小川を遡って行くのだが、草の倒れ具合で、昨日はもっと水位高かったのだろうことが読み取れる。川の水も濁っているし。ほんと逐一言語化できるのだが文字数。田んぼでお婆さんが座りながら作業していて、スコップで泥を掻き出している。いささか勢いが強く泥が道路まで飛ぶ。きっと僕の存在気付いていないだろうなと思い、長縄飛びみたいにタイミング合わせて走り抜けた。

 

滝は、凄かった。もう汗だくで体温高温で、少々のミストはどうでも良い。水量と迫力がすげぇ。動体視力を駆使して見ると、同じカタチが全然ない。戯れに仮に岩が一緒に落ちてきたら僕は避けられんだろうなとかも想う。

 

僕が特に神様を信仰していないのは、巨木は先輩みたいな感覚だし、全ての物に神が宿るのだとしたら、この水の流れは地球に水が生まれてからずっとあるものだし、水分が含まれていない物質はほとんどないだろうし、当たり前が神様みたいなものだから。

 

立派な存在を信仰したところで自分が立派になれるわけでも無いし。

 

どうでも良いが、徒歩1時間って、僕の幼稚園と小学校の通学路くらいの道のり。小さい身長というのもあるにしろ、だいたいもともとあった距離感。いまや特に歩けない距離ではない。

 

ここで出てくるのが、そこまで時間をかけられないという大人の感覚だが、そもそもちゃんと時間を遣えているのかという再反論が出てくる。時間は多元的な観念だから一元的な客観時間だけで見ていたら、いろんなことが終わってしまう。

 

もっとどうでも良いことだが、なんだか体が絞られてきている。縄文杉への準備なのかしら。行った人が、凄く歩かないと辿りつけないと言っていた印象が残っている。6時間くらいなのか。都会人の6時間くらいであれば、4時間くらいな楽観。いや、そんなに歩かないといけないならほとんどの人行けない気もするから、もっと短いような気もする。

 

あと個人的に富士山にも登るつもり。どれくらいの距離だろう。標高三千いくらを直角で歩けるとしたら3キロだが、人間は直角で歩けないから、三角比をもってくる。30度の勾配だったら倍の6キロくらい。6キロって、勾配考えても三時間あれば上り切れるな。

 

例えば、1時間歩いて自分の体と向き合うより希少な時間をほんとうに過ごしていると自信を持って言えるか。

 

僕は別に自分が賢いとは思わないが、自分の可動域については見ている。

歩くことと思考は良く似ていて、自分が動ける分でしようとすると、無理やり自分に都合が良くなるようにしてしまう。

 

でも、別にそれが悪いとも思わないのが、僕の人好きなところなんだよな。

 

雑談から持ってくると、自分に有益なことをしてくれる人が良いが、それをやってやっているとアピールしてくる人は駄目だって言っていた。とてもわかりやすいが、当人は相手に何をしているのだろうって想ってしまう自然な思考。でもこの人の中ではこれが世界の全てなんよな。

 

全然知識的な話してない気がする。

 

僕が学者とか何者にもなれなかったのは、興味対象がないのではなく絞られなかったからではとなったが、これはとてもご都合主義な解釈。実感としてはそうでも、客観としての説得力はない。

 

来週末は体を休めて、もっと頭で移動するか。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。