存在の多層化

 

 

 

晩御飯。メインは鯖の水煮缶と人参と茄子とぶなしめじのポン酢生姜炒め煮。日曜日の近所のスーパー、生肉は牛肉とか高い肉を推してくるから買えない。牛肉は生活の肉として好物でもないし。生活の生肉は、豚肉、鶏肉(もも、むね、かた)をローテーションしている副菜はアスパラを茹でて乾燥わかめを戻したものと、鰹節、すりごま、マヨネーズ、醤油ちょっと垂らし。

 

料理と文章ないし思考も良く似ている。アスパラとわかめを組み合わせることはができるのは、実際のその組み合わせで食べたことがあるか、もしくはそれぞれの材料の味から組み合わせて大丈夫だとできるか。何かを考えるって、その対象をとことん分析するみたいなことと思われがちだが、本質は別の対象と照らし合わせたり組み合わせてみたりすることと思われる。

 

客観に耐えうるかという意味でも似ている。僕の料理、名前が付けられるようなものは作っていないが、誰かの味覚に合わせて調整するということはおそらくできる段階にはある。自分の味覚が人の味覚と一致しているかはどうでもよく、自分にとって美味しいものが相手にとって美味しいとは限らないし。対自分だと好き嫌いなくなんでも食べるんだよな。濃いのと脂っこいのは続けると駄目だが、たまにであれば良い。ちょっと乳糖不耐症気味と、小麦の消化力が弱い。パスタはあんまり食べられないが、自作の和風パスタ(塩昆布とか)は好き。

 

文章はどうなのだろう。客観に耐えうるものなのかと考えると。形式(文法、語彙)はおそらく大丈夫だと思う。ただ、味としてはどうなのだろうな。酸っぱかったり辛かったりすることもあるのではないかと想像する。もしくは想像もつかない味。よく食傷気味にならないものだ。珍味は癖になる、ありえる。別に珍味を提供しているつもりはないが、素朴に書いているとどうしてもそうなる。

 

さておき。

 

朝起きた瞬間、もう日曜日か。土曜日はどこ行ったんだと思った。次の瞬間、いやちゃんと土曜日も生きただろうと再現されたのだが。

 

そうして、夕方髪を切りに行った。理容師さんと雑談をしていて、理容師さんが自分の年齢を自己開示してくれた。へぇ、時代がちょっと後かと。それは良いとして、突拍子もないことを言っても問題ないという認識も実践する。休みの日は何しているんですか、と聞かれ、最近は出かけていますと答える。雰囲気的に「このご時世的に」とぎょっとされた感はあったが、続けて、人の居ないところに。この前は琵琶湖に行ってきました、というとなるほどという雰囲気がある。

 

この人との雑談が楽しいのは、ちゃんと楽しく人生を過ごしているのがひしひし感じられるところ。牛乳パックで電車の線路を工作したとか。やってみたら楽しいですよと言われたが、僕はあんまり自分で創ってみるということに時間をかける気はない。ただ、実際の線路と同じような構造が牛乳パックで再現できるという発言から、そろそろ工学分野も読んでみたいなと思ったのだった。物質の耐久力とか構造における変化とか。この分野ってきっとかなり物理的な物質を見ているよな。

 

あと、自分の為だけではなく、子供の為にインドア活動したのが初めてなことに興奮されていた。息子がこの工作物見てどれだけ興奮してくれるかが楽しみとのこと。単純に良いことだと思った反面、なんで近い人にだけしかできないのかという現象について考える。

 

家族だから無条件というフレーズが出てくるとしたら、家族という条件付きじゃんって思う。家族って生物としての素朴な1単位みたいに認識されているが、生物が全部家族を単位として生きている訳でもないし、生物学的な観点で言えば、集合体とか種とかの単位としては適切。家族が単位であるというのは、もっと人間的な発明品だと思っている。これが相続制度とも繋がっていて、要は、自分の複製品として子孫を見ていく観念。財産が承継されることで自分=家が続いていくという一種の信仰と本能がないまぜにされている。たしかに、生物的な意味では親が居ないと自分は生まれないのだが、自分の肉体が生まれたからとて、自分の今の意識が自動的に在る訳ではない。

 

まぁ、当人が楽しければなんでも良い。

 

帰り道、猫さんが最短ルートではない道路の真ん中寄りに座って何かを一心不乱に見ている。何を見ているのだろうと、そろそろと近づいたが、やはり気付かれ目が合ってしまう。「なんやねん」という目だったため、そろそろと通り過ぎた。お邪魔はしないです。猫の感覚器って何が優位なのだっけ。耳とかで観ている感じではないから、やはり気配なのだろうな。僕の気配、全然猫に好かれない。人は、変人が集まる感じか(やや失礼)。

 

そうして、日中の話。

 

なんというか、僕は全然賢くないし不器用だということが改めて自覚される。ここまでしないと世界がクリアにならないのかと。まだまだ読ないと鮮明にならない。

 

昼間は法律学をえこひいきしている。ただ、法律学が至上の世界の捉え方とも思ってない。社会生活上のルールの話だから、あくまでそういう枠のこと。ただし、社会生活の構造自体が拡大しつつ細分化してきた存在だから、一目で全景が捉えられないということ。ただ、この世界を上限と枠づけて生きている人も多い。

 

僕は意志ってなんなんだとずっと思ってきた。行動の志向性なら分かるがそこに内心はどう関与しているのだって。ここまで言語化できていた訳ではないが、目的とか目標とかも良く分からなかった(正味未だに)。

 

ただ、法律学ではこういうものを意思として、これを読んでいてふと今日気付いたことがある。意思ってある枠内の現象を前提に、自分がこれをこうしたらそうなるという意識したした上で行動したことによる、ある意味過去を問題にしている観念。なるほど、今の意志とかではなく、行動からの逆算原理なのか。意志したからそう行動するではなく、そういう行動をしたからそういう意志があったという推定。だったらとても分かる。

 

ただ、これだと新しいことは何もできないな。

 

僕はやっぱりこういうのは駄目だ。自分の行動の理由に名前は付けられない。こういう風にしか客観的に捉えられないとしても。今読んでいる本の中で、あぁ「芸術学」だったか、自分の体験を言語化することは、体験に言葉というラベルを付けるのではなくそのものとして表すことだとのこと。そんな感じ。なんか読んでいる本達、同じようなことを言っている

のが多くて混在している。

 

デカルトのコギトも、現象学リベラルアーツと重ねてくるし。この「我思う故に我あり」という観念は、何か想うところがあるみたいな漠然とした話ではなく、その時代の社会制度とか科学的認識の当たり前を徹底的に疑ってみて残るものが真理であって、当たり前はほとんど真理ではない、ただ、この疑っている自分は疑う余地なく真理だろうというかなり具体的な自己観。この疑いも、はなから嘘だろうとすることではなく、受け入れた上でほんまか? と考えること。デカルトさんの時代は今よりも「当たり前」の拘束力強かっただろうな。

 

存在論は実は難しいという話の前に、常識的な悪いことの話。

 

刑法がかなり面白くなってきている。この本を書いた井田さんの器なのだろう。はしがきで、軽食ではなく、頑固おやじがやっている定食屋みたいな存在として書いていると書いているの好き。

 

現状の社会として何を犯罪とすべきかが研究対象の学問で、殺人罪における「人」の始まりはどの時点かというのは、ある意味では哲学の領域でもある。当たり前に人と認識される存在を人とするのは簡単だが、受精卵はどうか、胎児はどうかとかとなってくると、難しくなってくる。

 

ここで、人の開始を分娩を前提として考えているのが今の社会だとなって、なるほどなと思った。分娩を介さないで生まれたクローン人間は人間ではないらしい。と、「私をはなさないで」との共時性。この物語の世界の主人公は、臓器提供を前提として創られたクローン人間で、その社会では人とみなされていない。僕はこの小説に描かれている世界観がファンタジーとは全然感じられない。人は生きているだけで何かを提供せざるを得ないし、他人事ではないというか、これを他人事として読めない人が多いからノーベル賞になったのかなとか。

 

結局は倫理感の話で、複製は分娩を介すべきで、だから大事にできるみたいな考え方なのかな。民法もそういうところがある。代理母ではDNAではなく実際分娩した人が法的にはは親(あやふや)とか。僕は別に自分のDNAが同じ存在が在ったとしても、同じ意識には絶対ならないと思うくらいの自負はあるから、割とどうでも良くなっている。

 

もっとまだまだこの人生で遊びつくせる。

この認識で誰かと個人的関係になったらどうなるのだろうな。

 

僕はあまり現実に関わらないところで思考をしてきたが、そろそろ現実にはみ出しても良いかなとなってきた。例えば、マネーゲームとしての投資とか。いや、元手が全くないから実際参加はできないにしろ、実際に参加できるかどうかは特に問題ではなかった。歴史にも参加できないし。資格の方も、蓑というか、事務処理能力の訓練としては中途半端でやめるのも宜しくないなという感じ。肩書に反響されるのもどうかと思うが、そういうのもどうでも良いかという感じ。

 

あと、存在の話。

 

存在という言葉の意味にも色々階層があるらしい。何を現実とするかは結局直感に頼っているというのは哲学本だったかで、素朴な僕には当たり前だったのだが、やっと肯定された。現実感は一種のフィクションでしかない。

例えば普通の人の目には紫外線は見えないし、宇宙行ったこともないのにこれらを現実とできるのは、それが現実だという知識があるからだが、その知識はいったいどこから来たのかというと、社会の共通認識でしかない。

 

宇宙の話では、宇宙の構造のほとんどは人間が機器を用いても認識できないダークマターで占められているとか。僕はこの話、普通だと思った。観測方法とかは知らないが、なんでそんなに認識を重視しているのか。

 

 

個人で重視すべきは現実感ではなくもっと素朴な実感。実感の中には他人と共有できないものがいっぱいあるだろうが、人ってそういう存在。僕は実感を言語化しているが、この字面で共感してくる人が居ればそれちゃうでって今なら言うと思う。

 

色々あらためてしようと思っている。社交はなんとかなりそうだが、創作は僕にとって最終段階としている設定っぽいから、まだまだかも。でも、料理とか想像力の延長だから、そのうちするようになるだろうなという予見はある。

 

この器、満遍なく好きになるからややこしいんだよな。

 

おしまい。

 

では、おやすみなさい。

 

良い夢を。