当人

 

 

昼休憩に入り、ふと、お弁当画像を貼ってみようと思いいたったのだが、休憩室にお洒落な先輩が居たためカメラ音が出るのを懸念してやめた。明日、公園で食べられたら貼ってみるか(今撮ることはしない)。

 

ここ何日か見た目もちょっと気にしながら作っている。副菜はブロッコリーとしめじのおかかマヨ和え(ほんとはゆかりおかか和えにしようとしていたのだが、ゆかりを切らしていた)。

 

メインはちょっと味付けも気にする。食材は鶏もも肉、ピーマン、茄子、人参。まずバターをフライパンに溶かし、鶏もも肉に胡椒を振りかけつつ炒める。ある程度色が変わったらオリーブオイルを加え、茄子を投入。1分くらい油を染み込ませたあと、残りを投入し、水と顆粒コンソメを加え、アルミホイルで蓋をして3分程放っておく。その間に米を洗い、レタスをちぎる。水分が飛んだら、最後にケッチャプをかけてあえておしまい。オムレツ風卵なし炒めという感じ。とろとろの茄子がうめぇです。これは我ながら完成度高い。

 

さておき。

 

 

昨日見かけた大きな花、調べたところ芙蓉だった。あれ、前にも見た気がする。文字だったか種類違いだったか。ヒマワリとは別の存在感。

 

仕事はなかなか長く時間がかかる案件が多かった。僕にとって駄目な人が改めて把握される。別に記憶力がないとかはどうでも良いのだが、調べたら分かるようなことを1から教えないといけないこと。これの何が駄目って、僕が煩わせるということではない。別に仕事時間だから煩わしくはないし。ただ、ガイドがあるのにそれをそのまま1からって、ほんとうにその人の何が分からないか分からないし、求めていることも分からない。なんもないんかって思ってしまう。対話や質問は自分なりの見解があった上でするものなのではという感じ。まずやってみるという意識はないのか。そういう窓口ではないぞよ。

 

見解をやり取りするようなのは時間がかかっても充実感がある。その分相手がちゃんと得てくれただろうなって。

 

愚痴というか人の階層の話なのかな。知らんけど。

 

 

 

やれやれ。

 

「私をはなさないで」。終わってしまった。なかなかの読書体験。あんまり中身を書くのはあれだが、味わいとしては、「ゴドーを待ちながら」とか、「失われた未来を求めて」に近かった。誰かの感想文(僕はあんまりちゃんとした感想文は書かないが、人の感想文は結構好き)で、この作品にはヒーローも救いもないというフレーズがあったのを思い出した。

 

読書体験にカタルシスを求めるという感じは分からなくもない。娯楽ってそういうものだし、なんらかの現実との乖離を求めてしまう。ただ、こんな読み方をしていたら何処にも行けないよなとは思う。まぁ何処にも行けないから本に救いを求めるという因果かもしれないが。そういう風にしか読めない人が他人が読書をしていることに対して逃避だって評価する。もっと現実を生きろよみたいな熱い感じで。本より体験の方がより現実的な体験であるというのはまぁ分かる。

 

僕の感覚とはズレているなと思っていたら、やっぱりとなったのが「芸術学」の叙述。芸術作品は鑑賞者に「行動」を求めるものだとのこと。かなり分かりにくい。現実的な行為ではなく精神的な行動というのがまず。要は、ちゃんと精神がその対象を体感するということなのだろうなと解釈した。ある意味、自分事に落とし込むということ。もっと言えば、その対象から響いた自分はどうなのかを実感する。

 

この文脈でとらえたとき、本当に物理的・肉体的な体感が(現)実感として優位なのかってなかなか微妙なところではある。物理的な体感は別に意識しなくても流れていくし、経験として積み重なっていくが、果たしてその中のどれだけが自己になっているのか。諦めているだけなのではという感じもある。

 

マイミクさんの日記にギフテッドという話があった。生まれつき知性に差があると言葉にしてしまうとなかなか身も蓋もないが、個体差ってある意味当たり前のことで、この「差」の基準を平均値にするから人が相対的に捉えられるものだとなる。単なる固定観念の話。義務教育を通り抜けられた人が、義務教育で習った科目を全部習得できている訳でもなく、単なる経験として通しただけ。

 

日本で言えば空気を読めるかどうかが最大の基準なのではという感じはある。そこから外れていくと、発達障害だとか、解離性なんたらとか色々名前が付くことになる。

 

僕は何の才能も持ち合わせてないと思っていたのだが、僕にギフテッドがあるとすれば、何を収集したとしても特に揺らがないみたいなところかも。器の底が自分でも分からない。宗教観、哲学観、誰かの個人的な世界観にも波紋はあるが、それによって影響された自分がもともとそういうものであったとできるところ。

 

勧善懲悪の雑さももともと把握しているっぽいし、資本主義における財産を積み上げる無意味も知っているっぽいし、社会的な欲求が全然ない。だからやりたい放題やって良いのだなとなりつつある。人と接していて、自分は相手の鏡っぽいなとずっと思ってきたのだがそういうことなのだろうな。

 

鏡からも解放されつつありまだまだ先がある感じ。

 

そういえば、肩凝り解消してきたのは精神的な部分ではなく、仕事中に空いたときやたらと肩甲骨を回しているからだろうとした。現実的見解。

 

どうでも良いが、僕に残りの半身が存在しているとするならば、かなり俗っぽいか信心深いのかもしれないとも思う。でないとこの現世でバランス取れない。半身がどうでも良いのは、半身に出逢わなくても完結できそうになってきているから。

 

こういう見解になれなかったのが、まさに日本の空気を読んできたからだろうと思った。

 

ここで「難しい天皇制」の話。天皇がなんであるかって、空気として浸透しているものだから、言語化できるようなものでないみたい。古事記では色々英雄譚があるが、別にそれを読まなくても、なんとなく凄い存在なのだという空気がある。そういう不文律は社会にも蔓延していて、そのこと自体は不可視なんだよな。だから、言葉を交換しなくても相手が読んでくれるだろうという無意識がある。

 

この本読んで良かった。

 

自分の立場はリベラルだ、保守だ、フェミニストだという前置きして語る人も、その単語によって自分の見解はそういう空気で読んでくれるだろうと相手に期待しているのだろうなって。自分の思想をはっきり言語化して体系的に説明できるかということになってくるが、それほどそこまで要してないのだろうなとは思う。

 

個人として語るのは孤独だもんな。

 

忘れないうちに。

僕の文章を読んで自分事に落とし込んでいる人は在り難い。ちゃんと僕の文章という対象で体感していただいている。僕は賛同とかどうでも良く、波紋が大事。

 

ということは、ある意味芸術レベルなのか。どうなのだろう。

 

空気を読んで自分に知識がないとしてきたが、そろそろどうしようもない領域になってきたのかもしれない。知識を誇示することはないのだが、素朴な僕で過ごしていると、自己卑下を刺激してしまうことがあった。自分がしてないことを僕への羨望とか嫉妬にすり替えないでくれとやきもきしていた。

 

そうではなくちゃんと僕を見て欲しかったがそういう存在は今のところ現れていない。

使い勝手が良い存在として良い人、優しい人から入って、よくよく観測すると得体が知れなくなってくる。価値観が根本的に合っていない。

 

この解放感で見ると、法律学の本も鳥肌が立つくらい自分事の体感に落とし込める。

 

結局は、この現代社会のルールとしての最新値という意味合いでしかない。でしかないとか言っているが、見解としては歴史の結晶だから、素朴な感情論で噛みつけるような対象ではないのだが。

 

刑法でいうと責任とはなんぞやとか、民法でいうと過失責任とはなんぞやとか。そのうち日記にも落とし込めるようにはなるとは思う。全然高度ではないはずです。

 

高度かどうかも最近良く分からなくなっているが、日常の言葉で把握できない、あるいは、言葉としては分かってもその言葉が創っている世界観を把握できないかくらいの意味なのでは。

 

知識というか知見って、当人の中ではコレクションみたいなものだから、大事に配分するとか、あるいは有料でってなりそうだが、僕にはそういうのないんだよな。直に話せる機会があればという想定みたいなのはあるが、別に何かが返って来るという期待込みのものではない。

 

あんまり具体的なことを書けてない気がするが、ここまで。

 

おやすみなさい。

良き当人を。

 

おしまい。