いまだけしか無い

 

 

位置としてはカラスのプリっとを見かけたすぐ先の電線の上、おそらく同じはとぽっぽ(色味が一般色ではない)が昨日と今日と同じところに居た。昨日は小枝をくわえていてかっけなーと見えたが、本日は何やら呆然としているように見える。色味が違うから仲間外れになっているのだろうか。

 

そういえば今日のお弁当のおかずは昨日より美味しく見えたのではなかろうか。カメラの設定と現物の見栄えをちょっといじった。本日はスーパーで30%割引になっていたお刺身。

 

 

さておき。

 

1番長く過ごした恋人さんとべたべたというか、添い寝をしている夢から始まる1日。ロマンスはない。触れそうな距離で顔を突き合わせて話しているのだが、息遣いから感じる「におい」でもうこの人とは1生交わることはないなと感じた。誰から何かを貰ったとか、どれだけ今の自分が満たされているかを嬉しそうに語っている。同じマンションに住んでいるらしき有名人のシーンが出てきて、この人は今度結婚するんだということだったが、整形手術の途中らしく顔が包帯に包まれていた。生理的な「におい」と解釈していたが、今想うと獣臭だったのかもしれない。

 

なかなか示唆的な夢だが、呼応するような本に出逢った。

 

 

その前に、京都の巨木の話。

出勤前の画像で調べていたら、フィーリングが合いそうな杉を見かけたのだが、経路を聞いてみたら、公共交通機関で行けるようなところではないらしい。徒歩21時間か、そんなに遠くないなと本気で感じてしまうバグり様。ちなみに帰ってからもう少し調べると、案内人が居ないと行けないみたいなフレーズもあり、突発的に行けるような場所ではないみたい。

 

僕は人生の設定上、「求めるものは得られない」と過ごしてきたから、こういうことは当然ありうる。別に残念でもないがそろそろこの縛りも外して良かろうとなっている。意識で設定しても反映にはラグがある。明日の行き先は未定だが、未来とはそういうものだから特に問題はない。路地巡りも良きだし、何処に行っても楽しいのはたしか。

 

 

このなんでも楽しくて仕方がない源泉について書いていたのが本日出逢ったkindle本。「悟りを開く」というタイトルだったかな。タイトルに惹かれたわけではなく、著者のエックハルトが、哲学本でよく見かける名前だったし、断片的に見かける言説が面白そうだったから。

 

流れとしては、運気を磨くの先の話だった。スピリチュアル要素も啓発要素もほとんどない(訳者さんの注意深さの賜物なのだろうな)のだが、鳥肌ぷつぷつ。

 

ここで言語化したところでどれだけ染み込むのかは疑問。僕にとっては素朴な感覚を後押ししてくれるような言葉であるが、別に言葉で伝わった訳でもない。

 

要は、ほんとうの自分は、当人の思考を越えたところにあり、ほんとうの自分を捉えるには「いま」しかないと認識すること。

 

思考をアイデンティティにするって、デカルトさんのコギトの感覚。これは、微睡んだ集合意識から個人になるためには必要な段階としても、最終地点ではない。僕も思考はなんとも不自由だなと思ってきたところで、思考よりも「感じ」の方が素朴に近いとしているのは日記に書いている。でも、感じが言葉にできるものだという意識だと、思考に逆戻りというか、思考を介さないといけなくなるから、思考=言葉でも良いかもしれない。

 

で、面白いなと思うのが、この意味での思考(感情含む)は「いま在ること」を嫌って防衛するのだとか。確かに、思考の前提には時空間があって、時空間には過去も未来も含まれる。このフィクションの中の自分を相対的に捉えるから、自分はちっぽけだということに満足してしまう。思考的恒常性なのだろうな。ネガティブでもポジティブも何かしら立ち位置を測らないといけない。

 

思考のフィクション性については、僕の中での思考と他の人が言う思考って全然別物ではないかという疑念があった。自分との相対として考えることってそんなに思考ではないよなって。ともあれ、思考は道具でしかないということがまず1つ。

 

あと、時間が幻想であると自覚するというのは無意識とか行動ではやっていたが言語化はできてなかったな。時間は作るものであるでは足りなくて、今の延長に在るもの。

 

標準時をエックハルトさんは時計時間と呼んでいる。僕は客観時間としている。

この時間のスケールは社会生活を送るツールとしては大事なものだから搭載しないといけないが、これと素朴な自分を一致させる必要なない。「いま在ること」に没頭したら時間の観念はないから。この齟齬がある人って、社会生活が上手くいかないというより、切り分けができてないだけな気がしないでもない。人生時間と時計時間を混在させているから調律が狂う。加えて、心理時間という概念もあるとか。過去とか未来という幻想に囚われていまを把握できなくなる時間のスケール。

 

思考より上の段階に至っている人はあんまり居ないとエックハルトさんが言っていたが、たしかにそうだろうなと思った。例えば、自分の見解が正しいという意識も思考のアイデンティティを自己防衛するためのもので、勝たなくては自分が保てない。思考を客観視できずに思考と自分がイコールで結ばれている。

 

僕は割とちゃんと自分の見解は持ち合わせているが、それを壊してくれるものを常に求めている感はある。そんなことでは自分は壊れないし、という感覚。何があっても減ったり増えたりしないところにほんとうの自分があるという楽しさ。

 

自然に浸ることとやや近そうなのだが、いまに没頭するとほんとうの自分を介して「おおいなる存在」との繋がりを感じるというとのこと。おおいなる存在は運気を磨くで言えばゼロポイントフィールドで、名前というラベルは特に問題ではない。

 

この境地に至るためには、自分の日常の動作に対していまじぶんが何をしているか、感じているかを観測するということだった。やってるやってる。なんで好きな人がここまで好きなのだと観測してみたり、自分が歩いているときの筋肉の動きを意識してみたり。

 

巨木も巨木を目的としている訳でもなく、単に同類に挨拶できたらしようかなという感覚なのである。大いなる存在は外にあるものではない。

 

無目的であることに対する疑念もこの本がある程度答えてくれていて、目的はあくまで思考が設定するものであって、思考はそれを原動力にするしかないとのことだった。いま在ることで生きれば、目的もなくエネルギーが沸き、何をしても楽しいのだとか。良かったちゃんと仲間が居た。笑

 

無目的だから何もできないのではなく、目的がなくても何か行動できるだもんな。全然違う。

 

心象イメージとの一致もある。

エックハルトさんのイメージでは、ほんとうの自分になっていくと物言わぬ何か=大いなる存在との繋がりを感じるとのことだったが、僕の中では、物言わぬ自分が自分の全部を持っているというイメージだった。ノルウェーの森で言えば直子が本当の自分の言葉はもう1人の自分が持っていて、自分は本当の言葉を持たないと不安がっていたやつ。

 

微妙にずれているが、やっぱりそういうことなのだろうとはなった。

 

いまの自分は自分しか操作できない完全無欠の存在だからより楽しめばいい。

ただ、僕は悟りに安定したくはないお年頃なのでまだまだ知りたいのである。

最終的にはここに帰って来るとしても遊び尽くしてから。

 

どうでも良いが、エックハルトさん曰く、「いま在る」ように生きている人は希少だから、身近にそんな人が居たら離さないようにした方が良いらしい。文章体としての存在が身近なのかどうかは微妙なところ。何かしたところで継続できるような関係ではない。

 

エックハルトさんとは直に話してみたかったなと、僕はだいたい時計時間より遅く生きている。

 

まだまだ言語化できることはいっぱいあるのだが、肉体時間として睡眠大事なのでここまで。言語化しているのは楽しさを抽出したものではなく、あくまで楽しさの一部でしかない。

 

では、おやすみなさい。

 

良い夢を。