感情の扱い方

 

 

 

ここのところこっそり昼休憩にお弁当画像を貼るという所作にハマりつつある。量子論を持ち出すまでもなく、現象は観測者に影響される。当然自分の外化も現象に含まれる。明日は豚肉とピーマンとキャベツのマヨケチャ炒めと、もやしのナムル(豆板醬入り辛め)と目玉焼き。毎日入っている目玉焼きのカタチが悪いのはレンジで半爆発しているから。ほんとは卵焼きを作れば良いのだが、そこまでの時間は当てられない。

 

平日は私的時間よりも時計時間の方が重い。

 

 

さておき。

 

血迷っているのはいつものことだが、血が沸騰しそうになるのはさらさらない。

 

寝る直前、唐突にマグマのような憤怒氏が暴れ散らかしていた。

細かなイライラはともかく、体温が上昇するような怒りと名が付く感情はほとんどない。

 

怒りは抑えつけると別のところから痛み(「怒りは何故腰痛を選ぶのか」参照)、放っておくといじけるし、宥めようとするとつけ上がる。したがって、「怒ってはる、怒ってはる」と俯瞰で観察していた。感情は自分そのものではなく流れるものだと知ってなければとても留めていられないくらい激しいし、今日一日、その残滓がこびり付いている。

 

プロセスと対象を観測していると、感情ってやはり理不尽で傲慢なものだな。誰かとか何かではなく、「人間世界」そのものに対する憤怒だった。全宇宙までいかないのは、宇宙を消すためには人間が居なくなればそれで済むから。

 

理屈ではないから思考で読まなくて良いのだが、要は人間世界の基準の雑さにとても怒っていたらしい。なんで外付けの定義で自分とできるのだ、みたいな。あと、傲慢なのは、自分がそれをできているという思い込みがあるということ。

 

通り過ぎて見ると、ややすっきりはした。上手く処理できたと言えよう。今度悲しみがやってきたら、この方法でやってみよう。ただ、理性で考えると外付けの定義で決めるしかないよなというところ。最終的に「空」=何もないとすると、ここを規定する自分の定義は言語の埒外のこと。

 

こうやって、改めて理性で照らすとこの憤怒がどれだけ理不尽で傲慢だということは自覚できるのだが、これを最中にやっても憤怒氏は納得しないだろうなとは思う。時間の経過が感情の慰撫には必要だとの一般論とはちょっとずれた時間軸だが。

 

怒りは別に対象が原因ではなく、自分に火種がないと起こらない。例えば同じような対象でも、自分の虫の居所で怒りが発生するかしないかが決まる。これは自己観測というより母親を観測した知見ではあるが。

 

まぁどれだけ理不尽なものだと自覚したとて、絶対に起こらないようにはできない訳だが、もう少し考察を進めていると、感情が人そのものではない思考の産物なのだというのがちょっと腑に落ちた。

 

感情って何ぞやと定義すると、勝手に起こる心の浮き沈みみたいなものと思われる。ただ、完全に勝手に起こるものではないよな。ぼーっとしている時に急に怒りや喜びが沸く訳でもなく。と考えていくと、これって、○○な場合は、△△という感情が起こるものだという学習=思考の産物であるという仮説が出てくる。お別れ会では悲しい顔をするとか、プレゼントをもらったら喜ぶものだとかは、本当にそういう感情だったのかとは別に、或る状況には適切な反応をするという物語がインストールされているのでは。幼少期、なんで喜ばないんだ、悲しまないだって言われたことない? 素直な人格の人は、それを自分そのものだとして育って、後から自分が良く分からなくなることもありそう。

 

正当な怒りとかも民族自決みたいなところまで広がりそうな概念だが、そんなものは基本的にはないよな。怒りが起こっても無理がないということはあったとしても、怒って当然とか、怒るべきだとなってくると、感情がルールになってくる。

 

鬱とかって、まさにこういう正当な感情とその人のものの齟齬の極致なのではと想像する。

僕もおそらく一歩手前くらいまでは行っていた。心がボロボロになっているときにこういうときは怒るべきだって正当な感情を押し付けてくる人が居る苦しみ。知らんがな。悲しみに浸りたいんやと。割と根本が狂人、いや強靭なので特に外来とか内服までいくことはなかったが。強靭というより暖簾みたいな奴なのだよな。竹とか柳でも良いが。

 

個人的には感情は僕そのものではないが澱とか器からの訴えだから、こうやって観測できる憤怒が出てくるのは、なんというか、良きことだと思っている。

 

喜びには物語性があるが、嬉しみにはない。なんでだと思いますか?

 

ルール的な感情と、ほんとうの感情の違いは、対象ではなく機能とか目的だろうな。こういう感情は、対象にこういう行動をするものだというルール付けがあると、うさん臭さを感じた方が良い。

 

嬉しさは返す必要がない感情だからほんとう。嬉しいから返すかどうかは任意である。感情が起こっている最中に遊ぶことなんてできないが、感情はあくまで過ぎ去るものだからそのものではないのだよな。

 

こうやって僕が考えているのは思考でないな。たぶん、単なる思索。思考だと答えを目的としている感じだが、思索は頭の中で散歩しているだけ。正しい語用は知らない。

 

正しいと言えば、左手で漢字を書くお勉強をしている。饒舌は書けるようになった。不正を縦に並べると、歪(いびつ)であり歪(ゆが)んで歪(ひず)んでいる。右手では手癖で覚えている漢字も左手は速度が遅いから書けなくて面白い。

 

さて。

 

悟りという点で言えば、別に語彙とか世界観が豊富である必要はない。ただ、全ての物質的な満足はフィクションでしかないと事実を実感として納得できるかって、よほどそれを言う人に教祖的なカリスマがあるのか、もしくは似たような世界観が別のところで言われていることを知っているかだよな。

 

物質的満足が人の満足だっていうのは、マズローさんの欲求の三角形とか、資本主義を正しいものとした歴史上の物語としての正当性なのだが、ここが一番他人の最大公約数を取り易いというのはとても分かる。連帯感と引き換えに競争の苦しみとか、不幸感とかともセットなのだが、それでも連帯感は大事と思う。1人は基本的に寂しいもんな。

 

ここから、僕の現在の知見を駆使した、波動の話。

 

人間の肉体は、物質を食べて存続するものだが、物質そのものがエネルギーになっているわけではなく、アミラーゼ、ペプシンなんだっけ、そんな消化酵素によって食物からエネルギーになりうる要素だけになるようにカタチを変えて移動させている。酸素だって空気の中から肺胞が酸素を取り分ける。この科学反応って、物理的な食べるという観念ではなくエネルギーの移動。

 

そうやって、肉体は絶えず外からのエネルギーを必要とするし、それは分かる。

 

では、精神はどうなのだろう。

 

健全な精神は健全な肉体に宿るというのは良く分かるが、これは肉体が健康であれば人は精神活動に集中できるみたいな意味だと思う。

 

と考えていくと、精神に肉体と同じ意味のエネルギー補給はほんとうに必要なのかという話になってくる。精神が元気であるためには息抜きみたいなことを必要とするみたいな観念があるが、これってかなり肉体に依存した考え方というか、肉体と精神が完全に連動しているみたい。

 

確かに、エネルギーの移動を波動のように考えれば、精神にも何かしらの移動はあるがこれは目に見えるものではないし、どこかに行ったから、何かをしたからみたいな物理的な因果とは離れているような気がする。

 

精神にも物質的な栄養が必要だというのは、物理的な肉体のメカニズムからの流用でしかないという仮説。この話、思いの外言語化が難しかった。

 

これこれしたら精神が満足するみたいな物語もほんとうのその人のことではなく、一定のルールかみたいな気がする。精神にご褒美が必要なのは、そういう風に設定しているからでしかない。人間はパブロフの犬にならなくて良いし、機械にならなくても良い。

 

でも、そういう世界観で生きるのも良いのかもな。

と、僕は割となんでも良いし、どうでも良い。

 

モモ面白くてしかたないし、ハリーポッターも途方もない。

 

ハリーポッターが読み物として世界を席巻したのは、世界観がファンタジーに枠を越えているからなのかな。血による差別とか、敵対関係とか、畏怖とか、「わたしを離さないで」とも繋がる感じ。良い時代に生まれたものだ。

 

読み取れる世界が拡がっている訳ではないが、言語化の枠は拡がっている。

悟りの境地ではここには至れない。

 

モモも、いま読めているから良き。

無口で馬鹿にされている老人と、口が軽くてぽんぽん言葉が出てくる若者と三人で友達になった話があり、人の言葉と当人そのものはやっぱり別物よなと思った。

 

おとなってほんとうのことは教えてくれないよな。知らないだけかもしれないが。

 

僕のほんとは全開示なのだが、言語で読んでもヨクワカラナイのではという感じもある。

ではなんで言語化しているのかというと、波動のお裾分けみたいな意味。

 

よかった、今日はきっと憤怒氏は暴れない。

 

では、おやすみなさい。

 

良い世界を。