時間泥棒

 

 

 

芙蓉の漢字を何処かで見かけたと思ったらここだったのか。なるほど。当人のところに書き場がなかったからここに書いておく。

 

日記から。

 

憩いのとき洗顔料を買いに東急ハンズに行くと甚平を見かけた。甚平で過ごす夏も楽しそうだ。弁当画像はなんだか需要がありそうだが、甚平画像、需要はなかろう。ただ、甚平と、読書、ないし文章を綴るという組み合わせが個人的にばっちり合いそうなだけ。

 

好きな人の「オリーブオイルをジョッキで飲みたい」というフレーズに影響され、本日はかなりオイリーなメイン。一人暮らしの癖にオリーブオイル1リットルで常備していて、結構すぐなくなる。完成度が半端ないので、ちょっと細かめにレシピを残す。

 

鶏もも肉一枚。きっちりするのであれば、下味は切る前にすると焼いたときに皮がパリッとなるには違いないが、時間との兼ね合いもあり、一口くらいのサイズで切ってポリ袋に入れる。ポリ袋浅漬けにも使えて便利で常備。オリーブオイル、塩コショウ、酒、砂糖、んで、カレー粉。ついでに隠し味に和からし。で、一緒に炒める茄子(1本)にもひと工夫。塩水であく抜き5分のあと洗って耐熱容器に入れ、オリーブオイルをたらし、レンチンで柔らかくする。そうして、さらにオリーブオイルを引いて炒め、茄子も加えて、最後に全体を馴染ませるためにウスターソースをちょっとかける。

 

ほんとうに美味しい。茄子はオイリーな下味のおかげで味が適度に薄くて癖がない。隠し味はほんとに隠れている。普通に販売できるレベルじゃないか。まぁそうなってくると下味の和からしが粒マスタードになるだろうが、家にある調味料と時間では最大限。そういえば本の師匠にクリスマスにマスタードチキン作ったんだっけ、あの時は砂糖じゃなくてはちみつとかだったような。

 

オリーブオイルの重たくなさも良い感じに調和を取ってくれている。

 

と、細かいのはレシピではなく味わいだという。笑

 

 

 

さておき。

 

昨日の日記、やたらと閲覧数が凄いのだがどうしたことだろう。話題の日記とかなった? そんな訳はない。皆さんそんなに感情を持て余しているのだろうか。別に嬉しいとかはないが、波紋がより広くなるのはちょっと面白い。もしかしたらタイトル詐欺でないかと憤った人も居るかもしれないが、自分の感情の扱い方を他の人に教えてもらっても役には立たないと思われる。自分のものなのだから、もっと自分で見てあげると良い、という話のつもり。

 

とはいえ、読み返してみると我ながら文章も随分上達したなと思った。あんまり伝えたいことはないのはずっとそうなのだが、波紋が伝わるように書くというか、ある程度読解できるようには書かれているというか。だいたい言語化できないものを問題としているのに、それが言葉化できているのであれば、なかなかの完成度。

 

自分の性質上、褒めたところでつけ上がることはないから自分で自分を褒めてみる。誰も褒めてくれないし、というのはどうでも良い。自分のことは自分で褒められたらそれで良いよな。僕はまぁまぁ他人も褒める(言語化は30%程度だが)。僕に褒められたところで嬉しい人は居るのかという疑念はあるが、そんなこともどうでも良い。褒めたいときは褒めたいのである。

 

こういうのも遊びなのか。

 

 

ここから精神世界へ。

 

今の読書時間の最後の本はモモにしているのだが、本日読んだ最後に盛大に笑ってしまった。

 

「とてもとても不思議な、それでいて日常的なひとつの秘密があります。すべての人間はそれにかかわりあい、それをよく知っていますが、そのことを考えてみる人はほとんどいません。たいていの人はその分けまえをもらうだけもらって、それがいっこうに不思議だと思わないのです。この秘密とは―――」

 

あまり長く引用するのは好きではないのだが、あまりに面白かったので。さて、なんでしょう? いやはや、ほんと、人生面白過ぎるな。

 

 

言わずもがな、これは「時間」。続けて、時計ではかったところで意味がありません。知っているように、計られた時間の長さは伸び縮みするからです。みたいなフレーズがあり、最後に、「時間とは生活なのです」となる。

 

僕の解釈だと、時間とか生活について考えていて、ある程度の知見が構築されたから満を持してやってきたのだろうなとなる。別に偶然でも良いし、共時性でも良いのだが、どうせなら面白い捉え方を選んだ方が楽しいというだけ。

 

そりゃあ、モモが好きな人と重なるわ。

 

ちょっと時間についての思索。時間が素朴な当人の中では伸び縮みするというのは当たり前のことだが、これは標準にはできない。だって、操作性も恣意性もないから。こういう不安定なものさしより、よほど使い勝手が良い簡単に共有できるのが時計時間であって、時計時間で生きることが現代の社会性の必須スキルとも言える。これってメートルとかキログラムとかの共通単位でしかないのだが。

 

この時計時間は曲者で、この概念によって年功とか、尊属卑属という人を見る尺度が発明されたのだと思ったり、考えたり。何をしてきた、積んできたかよりも、どれだけ長く生きたかに価値を置く。これだと後に生まれた人は一生追いつけなくて、先輩・親が偉ぶるから自分が先輩になったときは怨嗟を解放するように模倣する。僕も巨木氏みたいに800年ここで生きていますってなら流石に尊敬せざるを得ないが、たかだか1年とか10年単位で早く生まれただけで偉いとかなるとどうもな。だから年下とか目下にお前とか言ってしまう人は個人的に駄目なのだ。

 

こういうセンチ単位みたいな時間の尺度を取っ払ったらいけないのは、それ以外に誇れる、は言い過ぎ、外に表現できるアイデンティティがないのではと疑われるのだが、これは単に、人生がそういうルールであるとしているだけなのかもしれない。他のルールで話せる人が居なかったというだけ。この「だけ」が、人生を左右するくらいの崖の彼岸みたいな気もするが。僕は自分のことを年齢で見てないからあんまり年齢で人を見ないし、接する人にはやんわり尊敬がある。誰かが何歳かってそんなに大事か。いやたしかに大事なときもあるが。

 

時間が単位でしかないとしたアインシュタインさんは、時代から離れた観念を持てた人なんだろうな。相対性理論の数式はさっぱり分からないが、考え方はなんとなくは分かる。

 

時間を素朴に考えていくと途方もないのだが、1つ言えるとすれば、ちゃんと時間を自発的に過ごさないと、精神的時間は流れないみたいなこと。ある程度時計時間も自発的に伸縮できるのではと仕事の時に試行している。左手文字くらい意味分からない遊び。

 

もっとまじめな話。困ってくる。

 

なんだか賢い人というか、知識人っぽい人ってニュースに対してこれはけしからんみたいなことを言えるような人みたいのだが、僕としては、何かを否定することはとても簡単だと思う。現代の語用ではこういう至らなかったことを指摘するだけで「批判」になるみたいだが、カントさんの純粋理性批判でいう「批判」は対象の限界値を議論するみたいなことだった。

 

例えば、このご時世の閉塞感について、じゃあどうなったら良いのかまで考えている人はいるのだろうか。決まったことに文句言うなんて誰でもできる。子供だって。

 

やっぱりこういうの書くのは良くない。

これは思索ではなく、決まっている結論に向けて言語で良い訳をするとか、説明付ける、「思考」でしかない。こういう意味の思考は澱が溜まってしょうがない。この語用はポジティブな事の言語化でも同じこと。

 

はい、次。

 

AIが人類を滅亡させるのではないかという懸念がテーマなのが「AIは人を憎まない」なのだが、ふと気になること。自分より賢い人間と、自分より賢いAIは何が違うのだろう。人間という同類だから大丈夫だという安心感なのか。でも人類史上、もっとも人間を退場させているのは人間ではなかろうか。AIは得体が知れないっていう素朴な捉え方も分かるが、僕は他人も等しく得体がしれないと思う質。同じ日本人だから同じように考えて行動すると思えるのはなかなかの一体感だが、だったら何故刑法が存在しているのか。

 

だから賢いAIが発明されてもそんなに世界は変わらないのではと思っている。資本主義のその先に到達するには、AIの発展が必須で、「仕事が奪われる」という感覚も、素朴に考えるとおかしいよな。仕事がなくなっても生活できるようになればそれに越したことはないはずだが、仕事=使命・生きがいみたいなフィクションが蔓延っている。これってキリスト教由来だと思うのだがどうだろう。農耕生活は生活のための仕事なだけだったような。

 

あんまりこの辺りの見解は厳密ではない。

生きるために仕事するんだったら、その仕事のほとんどをAIが担ってくれたら自分の生活に傾注できるのではと思っただけ。何かアイデンティティ上の問題もあるのだろうか。

 

アイデンティティ

 

僕はこれだけ書いているから、さぞかし話し好きで自分の話を聞いてくれることにアイデンティティを置いていると捉えられそうだが、まったくそんなことはない。僕のアイデンティティは、他人からどう捉えられるかとはほんと無関係。僕がどうで在るかしかない。これは好きな人ですら動かせないこと。別にこれは1人でも満たせる。

 

そうして生きているから自分で遊べる。

 

自己メンタルは強いが、他己メンタルは弱いからいちいち動揺してしまうが。要調整。

 

ではここまで。

 

おやすみなさい。

 

暑さに負けていませんように。