秘伝

 

 

 

自分がまどろんでいた時代、動作も発話速度もゆったりだった。あんまり聡明な感じではない。ただ、その時代でも1回だけ怒ったことがあり、事後に相手からそんなに澱みなく話せたのだと言われた。自分には自分で知らない部分があるのだという発見、というエピソードを昨日の日記を読み返しながら思った。

 

ここでは擬態する必要がないのか。

 

人生はだいたい幻想ばかりで、結局のところどの幻想が都合が良いのかで選ぶくらいしか人間にはできないのかもしれない。

 

本日つぶやいたのは、あまりにも自分がうじうじと動かないから現実化の前に言語化して強制的に自分の体を動かすという試みだった。Kindle端末探しの旅。

 

実際に触れる店舗は限られているとのことで、調べてみると、この前探しに行った店舗にもあるらしい。電車で2駅。で、それらしき端末はあったのだが、ほんまにこれかと思い、もう1店舗。今度はバスに乗る。初めてのバスはとても不安を煽る乗り物だ。目的に着くのか分からないし、どのタイミングで着くのかもつかめない。

 

まぁ、目的の駅はむかーし働いていた日雇い派遣会社があるところで駅自体は勝手知ったる場所。自分のお姉さん元気にしているだろうか。ハイエースに詰め込まれて1時間くらい移動したあと工場でひたすら単純作業。なかなか面白い体験ではあったが、人間が道具扱いされているという実体験ではあった。結構皆さん派遣に当たりが強いから、たまにちゃんと見ている人がいるのが際立つ。

 

という感じで、電車に乗ったのだがちょうど来たのが特急だっため目的の駅には止まらない。こうなってくると歩きたくなってきて、この暑い中一駅ちょっと歩く。特急で止まった駅もかつての友人と飲んだり、前の職場の退職後のアレでハローワーク行ったりした駅。

 

着くころにはお腹が痛くなってきて、暑いどころではなく冷や汗だった。「今在ること」に痛みが寄与するというのが実感される。いつ爆発するか分からない(とはいえ経験則からすると余裕のある)お腹を抱えながら、「人生とはなんぞや」なんて考えられない。いや、僕は考えていたが。笑

 

今度の家電量販店にはチラシもあったから分かり易い。パラパラめくってみたのだが、感情に訴えることは無かった。紙媒体が至上として、これなら今のスマホとほとんど大差がない。画面が少し大きい分だけ効率は増えそうだが、それでも数パーセントくらいではという感じ。これを買うくらいであればタブレットを導入した方が良いという結論。

 

ただ、全然無駄足ではなかった。実際に見て触れてみることで、漠然が具体化されただけで重畳。帰り道もそのまま別の鉄道会社の線に行くように歩いたのだが、初めて歩いたとしてもだいたい地理的な位置関係分かるから、方向音痴でも全然迷子になりようがないことだけがちと残念なだけ。あと、こんなに歩くと思っていなかったから日焼け止めを塗っておらす、結構こんがり焼けているだろうな。

 

 

さておき。

 

なんとはなしに、ブログサイトで書いた記事の本数を眺めると、前のタイトルを越えていた。348本だったかな。その前が347まで書いてやめていて、間に呪詛が過ぎるため誰にも読ませていない2本がある。一般的にはもっと有用な時間の遣い方があるだろうとなりそう。アフェリエイトもまったくしてない。でも、こういうのが僕だけの時間の積み方として正しい感じがある。無意だからこその自分時間のお裾分け。

 

そういえば、昨日パートナーシップについて書いたが、世の中の関係が全部まがい物だとは捉えていない。ちゃんと選択したのかどうかを問題としているだけ。選択したという意志はその時点では本心とされるが、未来からは誤っていたとされるのかもしれないが、まぁ良いか。

 

そういえば、本日のフィールドワーク。ある飲食店が、2回打ったという証明書を呈示したら優遇しますよというポスター。こわ。これと繋げてスマホを見ていたらポップアップしてくる、本日は何千人ですという記号。流石に事実を改ざんすることはしていないとは信じているが、こういう手法は行動経済学にあった。選択を迷っている人を後押しするという政策。ナーフっていうのだっけ。ニューロマンサー閾値下と書いてサブリミナルと読み仮名が振ってあるのとも近い。

 

終末論的な人の記事だと、人間の人間らしさをなくすようなことを目指しているという話があった。感じより論理というか、正しさみたいな。いや、これってもうとっくにそんな感じではと思わなくもない。むしろそういうのが教育みたいなところでは。

 

閑話休題

 

炎天下を歩いているとき、ふと僕はもっと自分に役立つことを思考すべきではという想起があった。昨日のパートナーシップの言説みたいに、世の中の構造を分析するみたいなものとか、自分がより幸せになるためにはどう行動すべきかみたいなところとか。でも、全然興味がなかった。思索の一部であって何も分からないし、幸せという概念も僕には要らないらしい。雑くないかという見解

 

幸せという概念が雑いのは、人生上の成功者のレールに乗ることみたいなところと、「快」にまつわる感情をいっしょくたに突っ込めるところ。心地良いのか、楽なのか、快感なのか、快適なのか、安心なのか、慈愛なのか、満足なのか、以下言語は有限だが、感じは無限。

 

僕の人生はこういうざっくりした当たり前を分解していくところにあるのかもしれない。

ただ、ブッタさんのようにはまだなれない。感情は行動の動機にはならないあやふやな選択肢の1つでしかないが、もっと人を個人的に知りたい衝動は否めないし。

 

機械学習とAIも気になる。「AIは人を憎まない」はAIが人類を滅ぼすのではないという見解がたくさんあるのだが、これ以上の見解は自分である程度やってみたいと生まれないだろうし。AIには遊びがないところが問題なような予想なのだが、人自体もそんなに遊んでいないような感じだし、何が違うのだろう。

 

エックハルトさんが書いて居たのだが、思考するときは全身でするようにするというのは、身の丈に合わない思考をすると、万能感が生まれて齟齬ができてしまうということなのかも。民主主義を体でもって思考するのであれば、他人の正しさと自分の正しさが違っていても採り入れる痛さを受け入れてからとかになるのか。

 

知らんけど。

 

モモと現代社会の相似。

 

暇がないというのは最大限の現実的拒絶よな(痛)。なんだかマザー3感もある。貨幣とメディアが取り入れられることで個人ではなく集団的価値観が重くなる。

 

時間泥棒のメタファーって、おそらくこういう社会的ものさしだと思った。そんな時間はなく、自分の役に立つことに時間を消費せねばという意識を発明する。こうやって追い立てられると不安感がどうあってもセットになってくる。自分は(一般的尺度において)時間を無駄にしていないかって。不安がある人をコントールすることはほんと容易い。いや僕はサイコパスだがこういうことはやってないです。政治の話。

 

免罪符と似たような話よな。身分が固定されている時代においては今生の苦しみはどうしようもないが、良い行いをしたら来世では良くなるよ、みたいに、打ったら平常に戻りますよって。

 

モモ、個人的にホラーっぽい感がある。

人が時計時間に生きることで自分を見失う。ただ、これって、僕が生きてきた人生上の人達でもあるという。高校時代の拘束時間のとき、ちょっと好ましかった女の子とガラケーでメールを交換しているときに、ふと、「身体は忙しくても心は暇人」というフレーズが出てきて、素朴な僕はまだこのままで居られているという感じ。いや、やっと現実化できているのか。

 

結局この女の子とは特に何もなかった。卒業後に2人きりで深夜の道の駅で会って話したが、一切具体的に物理的に触れては無い。肩が触れるとかは有ったと思われる。ただ、この女の子深くならなかったのも正解だと思っている。この人は僕を見ていた訳ではない。

 

と、考えていくと、まぁまぁ綺麗に全部避けてきたんだよな。

ちゃんと自分になれるように生きてきたからここに至っている。そろそろ友人に会ってもえぇかな。

 

ここでハリーポッター。人は何を選択したかで決まる。僕もファンタジーに化体して書いた方が良いのではなかろうか。直接書くとどうあっても棘があるから、ファンタジー的なサブリミナルみたいな。やっと「秘密の部屋」終わった。個人的にこの物語のメインって、スネイプ先生なのではないかと思わなくもない。「謎のプリンス」好き。1番人間っぽくないか。

 

戻ってきて、人のエネルギーの交換について。内側だけに親密性があるという感じは、肉体的な安全とセットだから、「幸せ」みたいなものなのだろうなと思う。ただ、僕はここにまつわるてきとーさが随分と嫌だった。内側だと他人が規定値になる感じ。この話きっとあんあまり通じないだろうが、人の観念がより雑くなる。

 

僕はまぁ良い年なので、誰かといちゃいちゃした経験も一定数あるのだが、このとき相手って別に交換可能だよなという本音の原理がある。最中にある感覚って、個別具体的な固有名詞的な相手ではなく、自分が誰かを通して世界と一体化しているという交換なのではという感じだった。ある程度誰とでもできるし誰かともしてきたことなのに、時間を区切れば固有になる不可思議。いや、たしかに秘伝でプライベートな領域だから吹聴するのは論外だが、ほんとに人と人の交わりなのかとはなる。あくまで外的なステータスの話よな。

 

僕は本質が知りたいだけだから、別に誰かがそこで留まっていることに対してはなんともない。結局、自分にたどり着くのは当人でしかなく、そのたどり着いた当人が、ふわふわした時代のレールより楽しいかどうかもワカラナイから、たどり着いたら楽しいよなんて言えない。

 

だから、断言してくる啓発本は割とうさんくさい。

でも、人って、基本的に外から貴方は正しいのですよって言われたいものか。

僕なら、貴方は面白いですよって言うが、僕に面白いと言われて嬉しくなる人はきっと変人である。

 

あぁ、感情の話。

 

怒りは通り過ぎるものだが、一向に通り過ぎない感情がある。せめて熱が失われれば良いのにと常々思うのだが操作はできない。

 

熱が無くなった感情はすなわち思い出で、陰影としての過去になる。

僕はいまに重きを置いているが、過去もいまの一部として過去という言葉も削除している。

 

熱が無くても想いの残滓は無くならないし、それくらいにならないとちゃんと相手を捉えらないというところは否めない。関係になると、相手の中の自分とかややこしい次元が出てくる訳で。僕は人を役に立つ(共通項がどれだけ多いか、発見が多いか)みたいなところで見てないから、人1人と接するだけでかなりのエネルギー。

 

モモが、時間銀行の職員から、お前の存在は人がきちんと生きる上では邪魔なんだって詰められていて、なんだか心が痛くなった。他のものさしとか、自分を省みる視点を呈示するって確かに邪魔ではある。

 

好きな人の不可思議さはこの辺りにあるのだが、あんまりあえてここで言語化したくない秘伝。

 

おしまい。

 

では、良い夢を。

 

おやすみなさい。