生活の意識化

 

 

本日は比較的ぐーたらデイ。朝ごはんはうめしそダレのレーメンがあったため、安くなると買ってしまうズッキーニを細切りにして塩もみして10分置いて洗い流したものをくわえたものと、納豆ご飯。

 

昼過ぎまで、何度寝とかしつつ、BOWのボーカロイド実況を見たり、ハリーポッターを読み進めたりしていた。ボーカロイドの技術というか調律とか知らないが、人が話すように発話する人工音の進歩はすさまじいと思った。キャラ付けもほとんど知らないが、可愛らしい声と人格。これとAI組み合わせたら音声通信で人かどうか見わけがつかなくなるのでは。

 

あと、こういうのって表現の幅も拡げているよな。自分の声が嫌いな人でもこれを介して世界に発信できる。ある意味人ではないという前提があるから楽しんでいるのだろうか。

 

そうして、昼過ぎに洗濯機を回す。シーツを洗いつつ、布団を干して、コンビニで昼ご飯。個人的に、店員さんの仕事ぶりを観測するのが好き。コンビニで働いたこともあるが、そういうのとは別に、この店員さんは何を意識して働いているのだろうというのをご当地で眺める。最寄のコンビニの店員さんの水準はとても高い。徒歩圏内のコンビニ駅前以外は軒並み潰れているのだが、ここはいつ行ってもお客さんが居て、潰れる気配がない。

 

細々した行動に意識が読める。読めない?

 

本日レジをしてくれたのは学生っぽい男性で、僕が買ったのは弁当、サラダ、2リットルの水。あと、家賃の支払い用紙。袋は持参しないため、これをどう入れるかあくせくする男の子。お弁当温めてもらうとさらにハードル高くなるから温めはなし。普通のサイズの袋だと横に2リットルペットボトルは置けないとなりもう1サイズ大きいのを探す。ハンコはこのレジ側にあったのだが、押すどころではない。

 

僕のすぐ後には、公共料金だけを支払に来た人(色的に住民税だろうか)がいて、もう1人のパートぽい女性店員さんが、奥からやってきて別のレジで対応する。で、ハンコを取りに来たのだが、ちらりと僕が置いている支払用紙を見て、持っていって自分が対応するお客さんに押したあとすぐこちら側に返しにきた。男性店員は気付かなかっただろうが、僕は見ている。

 

この気遣い(意識)に感動してしまう。当たり前の好意的行為より、やってもやらなくてもほとんど変わらない行為の中のポリシーが好ましい。

 

晩御飯のお買い物に行くと長野フェアがやっていた。どこかに行ってご当地モノを食する衝動は無いが、家で食べる分にはまぁまぁ買ってしまう。生蕎麦と野沢菜のわさび漬けを購入。生活的に消費される食材の値段は気にするが、こういうときの金銭感覚は別で、より美味しそうであれば良い。食材を全部生活的ものさしで測ると、外食なんて一切できなくなるだろう。いや、僕はしないが。生活的食材としてしゃぶしゃぶ肉とレタスと豆腐。お刺身ばかりだとバランス悪いから、本日は豚しゃぶポン酢サラダをメインにする目論見。

 

帰ってきて、音楽を聴きながら一通りおべんきょの本を読み流した。読み流したというのは語弊がある。ただひらすらなるべく早くめくり、それを眺める作業。おべんきょ感を払拭しないと上手く考えられないから、苦肉の策。いったん一字一句を再現しないという観念を払拭するために、ただの景色みたいにする。僕は苦行しながら生きたい訳でもないし。

 

ご飯を作る段階。お風呂をためながらしゃぶしゃぶ用のお湯(塩、酒、チューブ生姜)を沸かしつつ、布団に乾いたシーツを装着させる。掛け布団のひも縛るの大変。なにせ不器用なもので。これが終わるとお湯が沸きそうになっている。洗い物をしていると沸騰し出すから肉を投入し、火を止めて洗い物を完遂させる。ざるに肉をあげ水で締めて冷蔵庫へ。ざるを洗って、レタスをちぎると、お湯も溜まっている。

 

良い塩梅。

 

ご当地野沢菜わさび漬けは、結局絹ごし冷奴の上に乗っけてみたのだが、クリームチーズ感で美味しい。発酵食品の共通項。

 

そういえば、ここのところ部屋から出て階段を下りた2階にずっと居座っておられるカナブン氏。何食べているのだろう。僕の記録にあるカナブン氏は樹液を吸っていたのだが、階段にも何かあるんだろうか。何日か観測していると少しずつ動いているから生きてはいるのだろう。と、ここで昆虫の時間について考えたことを想い出した。2日前くらいに住宅街を歩いていると、石造りの玄関の柵にセミの抜け殻が残っていて、よく見ると、樹木に抜け殻が密集している。もう少し前に子供とお母さんがセミの抜け殻を集めているのも見かけた。

 

そもそも、セミは何故何年も地面で過ごして、生殖期間が数日しかないのだろう。セミの死骸ってほんとすっからかんのわりに、かなり構造が細かい。と考えたところで、そもそも虫に時間の観念はないから、ただそういう風に生きるように決まっているだけだよなと思う。なにか種の存続上、都合が良かったのだろう。時間を考えられるのは人間の特権だが、これを人間の一般的時間だけで考えるのはもったいない。

 

 

という、比較的ぐーたらな1日の描写でした。

あ、そういえば、起き抜けで水分を自販機に買いに行った帰り猫氏が居て、傍らに座って15分くらいお邪魔したのもある。迷惑そうだった(悲しみ)。

 

これくらいのことはふつーに誰でもやっていると思う。

やっているというか、生きているというか。

 

僕は記憶能力はほとんど普通の人と変わらないと思う。円周率何万桁とか覚えられない(覚えるつもりがない)し、電話番号すら覚えられないし。

 

ただ、自分が生きていることくらいは描写できる。

この意味で、言語化できないだけで人は僕と同じくらいの軸で過ごしているはず、なんてことはないか。

 

ここが時間性の外付けマジックというか、記憶力の概念の嘘というか。

外のことなんて人は残して居られない。結局はどれだれ内側の世界観にできるかということ。そんなこと誰も教えてくれなかったが。

 

試みとして、毎日というか毎瞬、右脳のちょっと上に「自分がいまなにをしているか、考えているか」というモニタリングの意識を残すことにしている。ずっとやるのはとても大変だが、ネガティブと病気は無意識の隙間にやってくるから、このやり方は割と正しいはず。

 

だから、今日のぐーたら描写も記憶でやっている訳ではない。

ちゃんと自分で在ったときの出来事はきちんと覚えられているはずで、それを日常生活でやっているだけ。無意識脳にはそれくらいの器はある。でないと人は無意識の中でうじうじ意識する余裕はない。

 

別に何か行動しないといけないみたいなこともなく、むしろ本当に大事なのは、瞬間瞬間に自分が何をしているかを意識すること。これがいましか自分が居ないということに成れるし、過去を手放さないで居られる。

 

どうでも良いが、興味深いという感想というか感情って、意識の交換からするととても高尚なんだよな。良いオトナになった人達が、固定された自分の外に興味を持つってなかなかない。僕は普通に興味で生きているから全然意識していなかった。

 

このヨクワカラナイそわそわは嬉しいで良いのだろう。

ある意味エネルギーが補給される不可視な交換。

 

まぁ、この興味深さが僕の物理にまで繋がっているかというと、そんなことはないと思われる。それが普通の事だが、メンヘラについて文章を読んだとき、僕の興味深さは当然物理まで繋がっているのだよなと思った。別にそれで何か自分に役立つとか生活圏になるとかはではない。女性の方が興味をそそるのは、女体への性欲ということでもなく(感触上の興味は否めないが)、女性の日記的文章の方が、わりと素朴な自分であるということが多いから。

 

男性になるともっと突き抜けた人になる。かつての文豪とか森さんとか。

 

性によるものさしの差異はとても分かる。

スーパーで、文脈は分からないが、「だったら知ってるって言えよー」と大声で話している人が居て、正しさを信奉しなきゃならないのは男性性の痛みだよなと。家督を継ぐのはなくなっても伴侶を養う正しさは残っている。ジェンダー論者は怒るかもしれないが、女性はなんだかんだ、守られてなんぼみたいな感覚があるし。

 

この守られているという精神的安全性があるから、素朴に世界を考えられるという傾向があるという話。自由だなって思う文章はだいたい既婚者さん。

 

個人的に、世界の話はどうでも良く。

世界の話で言えば、人間の集合意識が天候をコントロールできるかみたいなオカルトなことを考えているのだが、億単位の人が完全に一致したらありうるのではという推測はある。人の意識が電磁派としてのエネルギーであればだけど。

 

だから神様はバベルの塔をぶっこわしたんだろうな。

 

僕としては、「いま」接している人が僕にとってどういった「縁」があるのだろうなと思うだけ。別に寂しいから友達が欲しい訳でもないし、何かの有用性のために人と接している訳でもない。こういう友達が欲しいですってプロフィール情報に載せているのって、なんだか、自分で足りていませんって表明しているようで、そこの穴埋めのための人物にはなりたくないって思う。

 

明日どうしようかな。古墳群をめぐる旅とかもあり。

 

難しい天皇性で、第三者の審判性みたいな話があった。

自分が考えているではなく、誰もが考えているみたいな超然性。こういう共通項はとても心地良いまどろみだろうな。

 

かつて、僕を好きだった男性と居酒屋で話していて、僕がフェイスブックはなんだかキモチワルイって言ったら、それは羨ましいからではと言われ、自身暗鬼になったのだが、今ならきっぱりキモチワルイと言える。全然うらやましくもないわ。

 

僕は、賞賛されるために自分を書いている訳ではないのはたしか。

イイネはなんの交換にもならないです。興味深さの指標にはなるけれど。

 

では、おやすみなさい。

 

素朴な自分で居ることはすなわち人が離れるという経験則がある。

 

よい夢を。