理屈としての理屈

 

 

なんだか下半身に脱力感がある。なんじゃろこれ。他には特に害されている感はないが、味覚が過敏な気がしないでもない。味覚が鋭くなっているというよりはなんだか味が不快。味覚障害でもないし、体温は風呂上りとしては平熱の範疇。単なる飲みすぎか。

 

その割に、頭は回る。

 

本日は理屈について考えたり実践したりしていた。

 

感情が理不尽で傲慢だとしても理屈は付けられるんだよなということ。

昨日の日記読み返して怒っている感じもしたが、特に怒っている訳でもないです。たぶん。

 

本日買い物に行ったとき、レジが終わった後に袋に入れるスペースで、机には何も置いていないカートに袋を載せてある状態で、何故かお札を整えだした男性。別に服装とか所作に異常があるわけでもないから余計に目立つ。そのスペースで1人か2人かが袋に入れられなくなるなぁと自分がレジの最中から、袋詰め終わって出ていく3分くらいずっと居た。

 

なんぞこの人というのは感情で言えば怒りだよな。こういう人が居るから社会が非効率になるという思考。本日は確実に気が抜けていて無意識で生きているからこういう感情が出てくる。この前、電車に乗っている女性が電話をしていて、男性に注意されてたいたのだが、この光景見たときは特に怒りではなかった。そういうものさしだろうなというだけ。端から聞く電話が不快なのは、内容が把握できないからとのことだが本当だろうか。

 

ともあれ、この怒りは、まともな社会性があるような人物なのだからもっと真面目にしようか、みたいなところ。まぁスーパーでの買い物が社会生活かというと、社会的な名誉に関わらない(仕事中の買い物だったら絶対やらんだろうな、同僚の目が何処にあるか分からない)。僕は当然そんなに場所取りたくないから、コンビニ時代のスキルを駆使してなるべく早く詰めてはけるし、実際この人のおかげで待たされることもなかった。実際人が多くて待たされたとしてもここまでの怒りはない。

 

だから、自分が不利益を被った(これはイライラですぐ流れていく)ではないし、世界が清く正しく真面目であるべきみたいな規範意識でもない。ただ、できる(はず)のになぜ手を抜くということが気になる。できないとかやむを得ないという特殊事情はなんとも思わんが、真面目にせーやとはなる。いや人生で遊んでいる僕が真面目とはなんぞやだが、真面目に僕を見てくれる人には真面目だと思われる。真面目には建前上の概念があって、そう見せたら良いみたいな演技性があるからそこも余計に。

 

要は、人生上の時間は当人にしかないのに、手を抜いてどうするだという余計なお世話みたいな怒りである。そういう現象は見たくない。手を抜くと決めて手を抜けば良いが、その場合は内側だけに影響があるところでするべき。

 

そいえば、当然のことだが、「理屈」は「いま」の範疇には起こらないもの。過去の説明か未来への目的概念だから、ほんとうに内部においてはあまり問題とすることではないのだが、過去に対する共通説明が法律上の理屈だし、感情の理屈も開示して自他が納得するためには必須だろう。

 

ただ、この理由を言葉で理屈付けるというのは、人間の自然の性質として理屈をつけて納得したいというところにあるから、法律の方が多数の納得を得るという意味では必須だが、個人の感情としては、理屈があるのか感情が生まれたのではなく、感情が生まれたから後付けで理屈が在るのどちらだろう。鶏と卵で、これすら納得するための理屈がいる。

 

個人的には理屈の手法をもっと習得してみる。

感情的に納得できない理屈を屁理屈だと評価する人が居るが、それはもともと結論が受け入れられないものだったのか、過程を聞く気がない人が言っているだけな感じ。理屈はもともとも詭弁でしかないから、読む気がない人がふんぞり返って読んでも粗を探すだけだろうな。説明において最上級は理屈ではなく、「この人が言っていることは正しい、もしくは読むに値する」という心の領域だから、単に理屈が上手く運ばれているだけでは納得はない。

 

それでも理屈が大事なのは、理屈スキルというよりは理屈と自分の癒着を排除するため。どういうものが理屈なのか知ってないと、自分がたやすく正当化されてしまう。まぁそれでも生きることには不自由はないだろうが。だって、自分が卵焼きに醤油をかけることをケチャップを是とする人に納得させる理屈なんてないし。簡略化したが、もっと大きな思想上の問題でも同じ。

 

理屈の本質は直感とか感性に訴えることではなく、理性に訴えることで、もっと言えば、当人もそれについて疑っているというところにあるのではと思った。

 

実践例は会社法の、株式が相続によって共有された時の株主権の行使の扱い方なので、書いてもつまらない。法律はルールの理屈だから行き当たりばったりの感情論ではなく、過去から蓄積した事例をもって未来にも安定的な判断ができるようにするところに理屈が使われる。自分が何をしたらどうなるかという予測が付くというのは心理的安全性においてはとても大事よな。ただ、感情がメタ的にはなりそうな学問。凶悪事件に煽られて感情的になるのは簡単だが、感情では裁けないという縛りはなかなか大変だと思われる。多数派が感情的に悪いと思ったことは理由なしに悪いとすることは自分が多数派のうちはいいだろうけど、どこまで人の良心を信じて良いものか。そういう大岡裁きがおかしいという歴史の学習から法理論ができているのだが、素朴に考えると実際どうなんだろうと思う。

 

理屈の学問の極致と言えば数学だが、数学が人の本質を示しているというフレーズも見た。確かに、そういう面もある気がする。1,2、3、、、と数えていく数の無限と、0と1の間の無限(の濃度)が等しいって、なかなかすげぇ。僕はまだ数学は高校レベル未満くらいだが、1つの世界だとすると、とても静謐な世界だと思った。気分で覆されるような理屈はないし、追えば追うだけ分かる。難しさで言ったら具体的な個人より遥かに簡単。

 

「数学で遊ぼ」という漫画で、数学科のゼミの光景があったのだが、コレをソレと定義するというところから始まるのはとても良きだと思う。意味を決めてしまえばそれしかなく、感情が入り込む余地がない。期待も親密感もない。良い世界だ。統計学は最高の学問だ(数学編)も2周目。三角関数辺りから一気に分からなくなるんだよな。たぶん分数の本質が分かっていない。

 

数学の理屈はきっと時間性からは離れている。

 

ちょっと、「いま」の話。

 

仏教では、妄執から離れていまを見ろという教えがあるようなのだが、ブッダさんが「理法」って、どうあっても時間の概念が付着している。父母・妻子を大事にとか、あ、要は人生自体を「いま」としているのか。それなら割と分かる。自分は奔放だった癖によく言うものだ。笑

 

どうでも良いのだが、昨日の自分がへぇぁーと声を出していたこと。通勤路に「カムオン」というベトナム料理屋さんがあって、いい匂いを漂わせている。一回だけ別のお店には行ったことあるのかな。これって、漢字を当てると感恩で感謝という意味らしいという情報が原始仏教にあった。

 

感謝の念は今の範疇にあって、何とも交換できないものだ。

いや、理屈が付いている感謝もいっぱいあるが、ないものもある。

 

そうして、好きな人への好きの感情についての理屈を考えたとき、僕がほんとうにして欲しかったことをしてくれたところにあるのだろうなと思った。他の人にはきっとできないこと。ただ、別に物理的に何かを消費することではないから、取るに足らない心の動きだったのかもしれない。精神の交換にバランスなんて必要ないし、僕はむしろ貰い過ぎているというところが苦しかった。不自由。

 

素朴な僕は、もともと理屈を必要としておらず、世界の構造とかもどうでも良かったはずなのだが、世の大人が知ったかぶりしているので、ほんまかとなっただけなのかもしれない。いちいち言わないけど、心配の定義はなんぞやとか聞きたくなる。愛の作用なのかもしれないが、であれば、愛とは。

 

僕の余計な心配は、当人が生存しているかというより、当人がちゃんと当人で居るのだろうかというところであって、僕との関係性においてどうかではない。純粋な心配は自分にとっての利にある。恋人さんが浮気しているんじゃないかという心配とかそういうやつ。全然相手の存在を尊重できていない心配。吐き気がする。

 

いや、雑く愛情があるから心配するという観念でも良い。

言い過ぎ野郎。でも、この心配軸って、誰かが自分の世界に存在するか問題であって、どう存在するかは見ていないよな。

 

あーあーあー。

 

怒っているのでなく語れば語るほど引かれるのが分かっているから、ちょうどいい塩梅に収めていたのに、350本くらいとこの連休のアレでこうなる。

 

世の中には語るべきでないことがあるらしいと教えてもらった。

 

修行が足りないな。

もう少しほんわり過ごしたかったのに。(いや、既に無理が)

 

そういえば、舞踊が「現在性」の芸術だという話があった。確かに。曖昧な人生の中で、現在を捉えるカタルシス。オリンピックもきっとそういうもの。僕はいまに不満がないから何かの解消のためには見なくなって、ウィンブルドンとか深夜に見るの好きだったのに、何の衝動もなくなってしまった。

 

でも、演劇はしばらく見に行くつもり。

 

なんだか結局僕は寂しいのかと想ったりもする。ただ、普通の安心では安心されない。僕で安心する人も求めていないし。

 

もっとしっかり自分で生きよう。

 

思い付くたびに誰かがダメージ受けそうだと思うのはなんなんだろうな。

中学時代の「勉強してない」からきているのか。ここに至るまでそれなりにはやってきたのだが、別に理屈でもないし方法論もない。

 

では、おやすみなさい。

 

人生でありますように。

 

おしまい。