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身体はほぼ完調。昨日は腹筋に力入れる気にもならなかったが、本日はできる。職場に連絡したら今日だけでなくあと1日待機して大丈夫だったら出勤してOKとのことだった。有給を不意に使わせることになるかもしれないが、と申し訳なさそうに言われた。

 

このご時世でなかったら、というか、であっても債務不履行になりうることだもの。良識ある上司ばかりの良き職場。債務不履行になりうるという論点は、民法ごひゃく何条かの話。

労務提供が現実的にも可能でその意思もあるものを職場の都合で拒否したときに、賃金を払う義務は発生するのかどうかという話。プレップ労働法とかにも載っている。

 

僕としては有給はいつも余らせるし、別に使い道も使い処もないから消化できて良きかもしれない。仕事は仕事日で楽しいし。

 

頭はまだややパヤパヤ。若干バランス悪いかもしれない。どうでも良いコメントを素面でしてしまってすぐさま消した。

 

メタ的な話だが、昨日のもタイトル詐欺みたいになっているのではという感じ。完全に思い付きだから効用があるのではと思って読んだ人には時間の無駄だったかもしれない。ただ、僕にとってはこの発熱は確実に効用があったのです。世界がまた広がる。

 

前置き終わり。

 

身体と精神を突き抜けた存在そのものを抱き枕しながら覆った右手の親指で、大丈夫、大丈夫と撫でながら寝る。もはや抱き枕をどっちの腕でしていたのかも定かではない。今なら相手のしっくりくる位置に合わせるが、おそらく左手側だった。心理学的にはなんだったか。どちらかが警戒とかあったが心臓が真ん中だからどっちでも同じよな。

 

不定期でやってくる頭痛も面白い。他人の頭痛は分からないから楽しんではいけないが、自分の頭痛はあまり起こらないから、痛いなぁと観測する。表現するなら、右のこめかみに小型爆弾があって不定期にぼんぼん破裂する感じ。あまり奥までは来ないが、触ると爆弾がありそうな痛みがある。

 

そんなに痛くないから観測できるのだろうと思う人は、人の痛みを自分の痛みで測ることができる人。僕に対してはそれで良い。この痛みが珍しいから観測していただけだし。腹痛はもっと日常的だがこれも観測している。逆算すると、義務教育時代お腹痛いのが多かったのって、明らかに食べ過ぎと牛乳の飲み過ぎがほとんどだったと思う。という感じで観測することと痛みが和らぐことは無関係だが、痛みの経験則と照らし合わせができるという面はある。あくまで自分の中でしかできないことだが。

 

時計時間で1日(厳密には2日)暇になったから、動画鑑賞と思索が捗る。

 

おべんきょとしては、賃貸借契約における賃貸人の地位の移転についてのバランスについて。法律ってほんとによくできている。この「よくできている」は、どうせが枕詞だと何の身にもならない。ちょっと凝縮して書いてみようと思ったが、別に書かなくても僕の中ではまとまっているし、書いても面白くないだろうといういつものこと。

 

法律って一般的に賛成か反対かを決断することであって考える対象ではないよな。いや、一般的には賛成か反対を決めることを考えるとされているが、それは思考ではなく判断ではと思う。判断に必要なのは、思考ではなく正確な情報と情報の評価であり、いや、これも広い意味では思考か。こんなのどれだけ考えたって決まらないから必要なのは自責にできる勇気。

 

なんだか中学校の同級生に夜の仕事のスカウトをしているときに恋愛相談をされたのを思い出した。何を決めたいのか良く分からなかったから、後悔ないのを選んだら良いよって一般論で返したのだが、どっちを選んでも後悔するに決まっていると返された。控え目に言って僕はこの友人好きではないし別に一生会いたくないのだが、いまなら、どっちの選択に責任を負えるかで決断せぇって言うだろうな。

 

選択におけるデメリットをも受容できるかというのは、ほんとは責任ではなく遊びの領域だと思っているが、語彙が通じる気がしない。

 

そろそろ本題へ。

 

素朴な僕の見解って、とてもはばかられるのだよな。

絶対に言わない素朴があった訳ではなく単なる発見なのだが、具体的な会話でこれを言うと、絶対相手がイライラするか、自己嫌悪に陥るか、ものさしの齟齬を感じるに違いない。

 

そういう意味ではここに書いていることは現実的な関係では断片的にしか語れないのだよな。凄く具体的に言えば、仕事を楽しんでいる僕が仕事に苦しんでいる人と共生できるはずがない、とか。しんどさに共感はできるが、あー。

 

ところで、原始仏教ブッダさんが宗教をして語らなくてはいけなかったのも分かる。これでもとてもマイルドにしていると思う。普通に雑談みたいに読めてしまうのだが、全ては「空」を前提とすれば、その後の賢いとか愚かとかは蛇足な感じ。まぁ空にたどり着くためには自分を突き詰めていかないといけないのだが、これも修行でたどり着くところではないし。マイルドなのは、善いことしたらいいんじゃないみたいなところ。善きに励んで「いま」に辿りつける訳はないぜ旦那。

 

いや、実際のブッダさん知らないが、仏教の本質はどうあっても属性に囚われないところから来ている訳で、善悪というその時代の価値観とは別物だろうという解釈。

 

あぁそうそう。

文章だから書けるというのはたしか。会話とか関係だったら無理だが文章だからマイルドに他人事して読まれることができる。ちゃんと他人事として読んだ方が良い。

 

昨日に戻る。

 

存在を抱きしめつつ、自分の体への感謝もしていた。よく生きてくれたとか丈夫でありがというとか。この体への感謝って絶対的なものであるという結論からの思考。

 

絶対的とは何ぞや、相対的とは違うが他に説明方法はないのか。

哲学とか神学は絶対的存在として神様を創らないといけなかったのだから、形而上学への挑戦的思索。

 

思い付いたのが具体との違い。

 

どれだけ具体的に自分の体を捉えても絶対にはならないのは何故かというと、具体的というは、あくまで或るカテゴリーの中においてという前提の中での1つだから。人間(日本人、某世代の男性・女性、某地域諸々のカテゴリー)で、捉えられたら自分の肉体も反逆し

てくるわな。抽象的ならもっと広いのかというと、これも或るカテゴリーで区切った共通の要素を取り出すだけだから、絶対とは違う。

 

絶対は確かに言語化しにくい。

なにせ人が絶対で生きていないし。

 

 

続きの前に、もう1つこの体調不良時に考えていたこと。

 

人って、どういう時に他人と一緒に居たいのだろうという思索。

例えば、不安な時に安心するためにとか、人肌恋しい時に温もりを感じるためにとか、生活を継続するためにとか、ためになること発見させてくれる人とか、「或る個人」の前に状況があるよなという発想だった。別に悪いことでもないが、雑いとは思う。この雑さなんなんだろうと思ったら、結局人を自分の物語の登場人物にしているからなんだよな。状況が先なのに、しれっとその状況が当てはまるのはその人だけになっている。

 

こういう風に生きられたらもっと楽だったと思うが、僕には無理だったんだよなぁ。

ここでいう楽は、苦と同義。

 

いや、別にこれを親しき交友関係だとするのも良いし、ちゃんと人を見ているとしても良い。

ただ、この建前上の世界って楽しいのかとは思う。建前じゃないですという見解に対して、では仮に、まぁ良いや。

 

僕はこうやって仮想してみたとき、いまだとどういうシチュエーションにおいても別に誰も関係でなくても良いなとなった。熱が出て不安で動けなくなったらなったで朽ちれば良いし、この不安感って最初の生命維持の残滓だし。こういう意味での退場の可能性って日常生活でも普通にあるからな。顕在化したから不安になるのってとても安心な世界に生きている。

 

素朴な僕は安定剤的な存在も必要としてないし、時間を潰す存在も要らないし、新たな知見を得る為に書物で賄えない存在ってなかなかおらん。あんまり辛辣なことを書いている気はしないが、まず自分の時間をきちんと見ないと、人生もまともに見えない。

 

あくまで僕の物語だが、本の師匠が仏教をあんまり見ない方が良いと言っていたのを思い出す。どういう意図だったかは定かではないが、たしかに共感してしまうことになった。心理学も読むなということだったが、その当時の僕はあんまり自分ではないから分からなかった。

 

僕の人生論だと人ってふつーに啓示的な人物と過去に出会っているという感じなのだが、違うのかな。こういうのが無いのに人生を経験則だけで見ているってなんなのだろう。否定する訳ではないが、何をもって自分としているかの論拠は気になる。もともと自分を全部言語化するなんて無理だし、世界はしんどいものだという固定観念はなに由来だろう。(いうまでもなく前世代から)

 

僕が啓示的な人物になってしまった人の人生はなんだか申し訳ない気もするが、しょうがない。目を凝らさないとただの通り過ぎる人物だし。

 

「モモ」からのなぞなぞ。

 

ある三兄弟が家に住んでいました。

長男は、いまはいない。次男はもう出ていってしまった。三男だけ家に居る。三男を見ようとすると長男とか次男になり変わる。果たしてこの人物たちは存在するのか。

 

メタ的読者としては、途中でわらけてしまう。

そりゃあ時間だろうよって。時間をファンタジー的にしないといけなかったのはどの時代も一緒かもな。現代でもファンタジーとかSFにタイムリープとか異世界とかあるし。

 

でも、エンデさんの言い回し読んでいると、何か原始宗教由来感がある。原始仏教なのかキリスト教なのかは知らないが、時間の本質はどちらにも書かれているし。

 

人に時間を分け与えることはできるが人は時間の扱い方を分かっていない。

自分だけが決められることだって言っているのに誰も聞いてくれない。などなど。

 

人生の醍醐味はこの満を持して啓示がやってくることだよなぁ(悦)。

 

そういえば、頭のパヤパヤ感がなくなっている。

どうでも良いが。

 

あと、芸術の本で、人は舞踊において分裂し、融合しているというフレーズ。

本当は生のあらゆる局面でそういうことがあり、これは小さな死と再生だ、感動とはそういうものだ。

 

感動とはもっとも手っ取り早い合法的な自殺。感動した後にはもう従来の自分ではない。

というところまでの感動をしたことがある人がどれくらい居るのかは知らない。僕は結構定期的に死んで生まれ変わっている。

 

なんで、死ねなくなったのだろう。僕はこういう意味ではもっともっと死にたいのだが、きっと皆死ねない理由があるのだろうな。

 

あー、だいぶすっきりした。

もっと、突き抜けないといけないのだった。

 

命を絶対化したら自分の生命すらめぐるものであってなんでペットとか家畜とか、目に見えるものだけ気にするのだってなるしな。

 

はいおしまい。

 

もうそろそろ書けなくなってきそうですが、縁がある限りよろしくです。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。