ギャップ

 

 

 

読んで気分が上がる文章を書きたいな。肯定したり寄り添ったりする訳でも知的好奇心が刺激される訳でもなく、意味も目的も関係もなくただ響くような。そんな文章、時々在るとと思います。

 

さておき。

 

本日は水まくらを干した。水は重いという当たり前の知識を実感させる存在。惰眠が捗ってしょうがない。命名を思い付いた。「蒼(無性別・無階級)」にしよう。この漢字のフォルムがとても好きなのは、実体験込みなのだが、当人は幼いという意味があって全然好きではないと言っていた。前向きに捉えるのであれば、いつまで経っても完成しないという意味で良いのではと今更思うが、当人は完成したがっていたから慰めにはならなかったろうな。

 

 

洗濯などもしたが、昼ご飯はざる蕎麦を作っただけのため画像映えしない。そこで精神的な方の今日の収穫物にした。撮って思ったが、なんとなく紫ベースで色合いのバランスが取れているという。

 

まずは物理学。たしかうちに「教養の物理学」という本は蓄財されていたはずなのだが、探しても一向に見つからないため、最新を買いに行った。そうして見つけたのが、「高校物理再入門」。いや、僕は文系だから物理は一切やったことないのだが、はしがきで美味しいに違いないと思った。高校で習った物理の公式がどういう背景によって生まれてきて、他分野にどういう風に繋がっているのかということを書きましたとのこと。うん、こういうのが読みたかった。ありがたや。

 

今は運動のところなのだが、重力を基礎とした運動の記述って、宇宙から考えると地球の中の空間(しかも理念的な)ところでしか成り立たないとか。まぁ僕たち人間が生きられるのは今のところ地球の中だけだからこれで問題ないのだろうが、空間的に感覚を捉えるのもちょっと狭いのかなと思う。こうやって、越境して考えることができるのが素朴な頭の醍醐味。

 

こうやって学問とか諸々を読んでいると、色んなことを考えてきた人達が存在したから世の中の認識が更新されてきたのだろうなと思う。こういう発展の段階を知らないと物事が分からないのが素朴な僕らしいから、ガリレオとかニュートンの原文を読まないといけない。数学だとユークリッドとか。

 

こういう、物質の動きが気になる人は物理学者になるし、物質の性質が気になる人は化学者になるし、美が気になる人は芸術家だったり美学者だったりになるし、となるのだろうが、僕はそういう人が何を気になってきたのが全般的に気になってしまう。目的を無理やり設定するなら、「人の本質への接近衝動」みたいなところ。これって具体的に体を重ねても分からないよな。

 

自然科学的には、工学も呼んできたし、ITではプログラミングの思想背景の本が気になったのだが、あんまり多くなり過ぎると1冊に費やせる読書量が減るから、また今度。

 

あとはステップアップの本。「大学の日本史」の古代が2周終わったから、そろそろ中世へ。まぁ古代の内容を全部把握できている訳でもないが、完全な理解をしないと次に進めないなんて奴ではないし、また読み返せばよい。

 

租税法の入門書では思想背景が分からず物足りなくなってきたため、もう少し分厚い本へ。

今や、公共サービスの資源として必要だということでたくさんの類型の税を納めているが、もともとは、年貢とか租庸調のある意味「命を守ってもらう対価」だったんよな。これがいつの間にすり替わったのだろう。社会契約の文脈なのだろうか。若干フィクションめいたものを感じるのだよな。消費税が増えた分は果たしてどこにいっているのか。

 

ここでノブレスオブリージュというちょくちょく日記で見かける言葉。最大の富める者は現在では国家だよなぁ。というところで、財政学も気になっている。予算をどういう風に配分するのか。富の再分配の最適化でどうあるのが正しいのか。広いところだと正しさは大事になってくる。

 

租税法の話で、まさかアリの2:6:2の法則が出てくるとは思わなかった。勤勉な2割と、普通の6割と全く動かない2割。生物学的な集団論って人間にも適用されるのかしら。

 

このまま真面目な話に行く前に。

 

本棚を漁っていたら、東洋医学の本があって開くと、薬膳の一覧のポスターがあったからなんとなく部屋に貼ってみた。薬膳というと仰々しいが、一般的な食材の薬膳的効用で分類した一覧。熱、温、中、冷、寒だっけ。僕は人の体については東洋思想の方が馴染んでいるのではという立場。人はビーカーの中のホムンクルスでもなし、対処療法だけでなんとかなるはずもない。あくまで人も自然の1部である。

 

今日の晩御飯の注目はズッキーニの浅漬けの別バージョン。塩と昆布茶とお酢で漬けているため色が全く変わらない。味も優しい。ズッキーニってもともとこんな味なのかが分かる。まぁ、僕はビールの中のホップの味ってこれなのかもなと味わう変人なのでアレだが。苦いけどなんだかフルーティ感。

 

さて、どちらから書こう。

 

やはり法学からか。

 

最近の裁判例がまとまっている記事の中で、某デモのきっかけになったとされる強制性交罪の高裁判決の要旨があった。ジェンダーに聡い人でも刑法の原文を読んだことがある人はそんなに居ないような気がするが、この犯罪ってとても難しい。

 

もちろん、親しい人がそういう被害に遭って、この人は嘘を言う人ではないという確信があれば、認定は簡単だが、第三者の視点から被害があったかと判断するのってどうやるのだという話。

 

ここでの問題は、別に女性(今や女性だけが被害者になる訳ではないが)が泣き寝入りするのを是とする訳でなく、犯罪と非犯罪の基準をどうするかということ。このケースは、父親が娘に云々という一般的な犯罪として罰するというより、児童福祉法とか監護者云々だったのだが、被害者が19歳になっていたから、刑法を問題とするしかなかった。

 

個人的には、暴行又は脅迫によって抵抗が著しく困難だったという事実を必要とすることは分かる。だって、主観的にどうだったかを問題としたら、気分で犯罪者にしてしまえる。もっと言えば、この「著しく」は程度概念だから、裁判官によって変わるということもありえる。

 

不同意性交罪を立法的に創設するべきだと解説者も言っていたが、これを作ったとしても恣意性の不明確さは否めない。そもそも何が害されているのかという本質が共有化されていない気がしないでもない。誰とまぐわうのかという性的自己決定権が何故重要なのかというところ。

 

家父長制の系譜とか個人の尊厳とか本能的快楽とか、色々もつれている感じ。

 

刑法が行為を犯罪とするのは、人の精神にはなるべく立ち入らないというところで、だからこそ、外形的に無理やりそういうことをしたという事実として抵抗不能であったかが問題になる訳で。

 

ただ、コモンローが貞操義務を設定して、抵抗も義務としたみたいな話を見て、おぅとなっている。もともと自己決定権の話ではなかったのだなと(当然と言えば当然だが)。

 

どう設定するのが合理的なのだろうな。

 

犯罪者憎しだったら、どんな嫌疑であれ犯罪者を悪者にしたら良いけど、被害者は被害を既に被っている訳で、加害者を憎んだら被害者が慰められる訳でもないから、あくまで当人の倫理観の正当性を保つための怒りっぽいよな。

 

こういう乖離でもう1つ考えていたのが、家族という法的結合の制度。

別にその枠の中で愛着は家族でなくても起こり得るから問題としていない。あくまで枠というかタガの話。

 

今の結婚式がどういう風にされているのかは知らないが、無神論者として名高い日本人でも、形式的には神様の前で合意を承認してもらうみたいな儀式がある。これって社会契約よりもっともっと前の感覚なのだが、そういうことをやる。

 

こんなの建前だというのは、別に良い。

ただ、婚姻関係って実際にもパッケージとして決まっていて、例えば合意で貞操義務だけ排除するみたいなことはできない。実生活上でプラトニックな婚姻生活は成り立つが、仮にどちらかが云々して、もう一方に悪意があれば、損害賠償問題に発展できるという意味。

 

なんだか、ガスとか水道との契約に似ているなと思った。

専門用語では定型約款という。

 

人の不倫に滅茶苦茶憎悪を感じる人の根っこにはこういう定型的な家族観があるのかもしれない。悪いことだというより、悪いことにしなくてはならないという強迫観念。たしかに具体的に考えれば約束違反という意味で悪ではあるかもしれないが、具体的な判断って、両者の言い分をきっかり聞いて天秤にかけてするものであって、結果だけで判断できるものではない。

 

素朴な僕は冒頭に書いた通り、体を重ねたところで人は分からないし、合意がなくそういうことができる(金銭として対価があっても)神経も分からないが、なんとなくの雰囲気的な感じもするし、ここにおける合意とは、みたいなところはある。性欲自体はメディアで解消できるし、そこで繋がった感を得るのもなんとも。これを廃した後にしたらどうなるのだろうというのはあるが。

 

結果だけで判断できることは、とてもとても良い人生だとは思います。

自分の価値観を疑わなくても良いのだから、考えることなく一生を終えられる。

 

一般的な意味合いでの人類の悲観みたいなことは知らん。一般論を前提とするのであれば、世の中にはこの世から退場した方がマシみたいな人生を生きている人も居るだろうし、そうなってくると命が全般的に大事だとは言えなくなってくる。

 

生きていれば良いことがあるというのは、確率論としては正しいが、等しく悪いこともあるかもしれないというのもセット。

 

ただ、僕が人のことをどうでも良く想えないのは、当人のものさしでなんでそんなにあえてしんどく設定しているのだろうとかがあるから。でも、人生観って固有で譲れないものだろうし僕もあえて変えさせるまでの衝動はない。

 

真面目に書くと、凄く真面目に考えて生きているみたいに見えるが、あくまで書いていることは上澄みでしかないのである。基本的にはのほほん野郎。

 

時間と空間の話があったのだが、あんまり真面目な事ばかり書くのもどうだろうという意識からの疑義。採用。

 

惰眠を貪っていたとき、虎に襲われる夢を見た。個人的に猫科の大型動物はとても怖い。まぁ虎なら一思いに絶命させてくれるかもしれないが、熊は鮮度を保つためにぎりぎりの生命活動を残しながら食べるというイメージ。熊漫画とか熊事件の記事を読んでは行けない。

 

猫は可愛いが、それは人間が猫より大きいからでしかない。猫も自分より小さかったらいたぶるもんな。実際に見た。でも、可愛いのは変わらないから猫カフェに行きたい。

 

犬も可愛い。コーギー動画をよく見ている。

 

収集つかなくなってきたからここまで。

 

おやすみなさい。

満足できないことが幸せだみたいなフレーズを見たが、考えなくて済むことの方が幸せかもしれない。

 

良い夢を。

 

おやすみなさい。