知の無知

 

 

 

周回軌道上より定時連絡のように日記を綴る。

 

 

「大学の歴史 中世」で、鎌倉時代の歴史の考証になるのは文書と文章と日記というのがあった。少し調べたら我が師である兼好法師もこの時代なのか(僕の人生師匠が盛りだくさん)。300年後くらいに僕の日記が歴史の考証にされたら、この時代の日本人、毎日毎日日記ばかり書いていたのか、しかも内容に時代性がないみたいなことになるだろうと想像して面白かった。

 

まぁ人の日記が読めるのも、数十年くらい前までではという感じ。数百年になるときっとその時代の普遍性を残した天才の文章しか残らない。天才の文章でも読み慣れないと分からない。古文の分野も開拓していきたいところ。個人的にはあくまで字面の問題だが、蜻蛉日記を読みたい。源氏物語はかなりディープっぽいしなぁ。

 

日記というか人が商業的な意味合いがなく書いた文章について。直に聞いたことはないが、僕と好きな人の好みは似ているのではと思った。もちろん好みが近いからとて何か親しみが増えるということはない。親しみはもっと別のところ。

 

僕は人が何を普段食べているかを読むことは好きだと気付いた。ブロッコリーを茹でて、焼肉のタレとマヨネーズで和えるってどんな味なのだろう(美味しそうだが濃すぎないか、大丈夫か、焼肉のタレは常備調味料でないから再現できん)とか。

 

ただ、この気になりはレシピブログを読んだところで満たされるものではない。料理ブログは生活上の料理には違いないが、なんとなく余所行きで料理を捉えているというニュアンスがある。たぶん読者数を増やすという目的(邪念)もあるだろうし。こういう文脈でインスタとかも基本的に惹かれない。直近の元恋人さんには弁当貼るだけで一定数のフォロワーできるでみたいなことを言われたが。

 

あくまでふつーの生活上の日記の文脈での料理であり、外用に見せるものではないものが書かれているかどうか。人の日記に書かれるご飯って、基本的には外食とかの「美味しい物」を食べましたというイベントの記録だが、非イベント=生活のご飯の方が人を作っている訳で。

 

日常の食生活が言語化されないのは伝達するまでもない物を食べているというより、当たり前すぎて言語化するまでの意識に上らないというところにあるのではないかという想像。無意識の領域で自分の体に入れるものが決められているってなかなか怖くないか。自分で決めていると思い込んでいるが、そもそも選択肢がほとんどない。

 

僕の日記がまごうことなき日記だと評してくれた人が居たが、たしかにその通り。生活の中を意識的に生きていると、言語化できるくらい濃厚に残るし、ご飯の話も普通に毎日書ける。という意味で、僕の弁当画像に一定の需要があるのも分からなくもない。個人的には、「日記に書いているように生きていますよ」という文現一致の証拠の呈示みたいな意味合いもある。信じられていないとも思っていないが、そういう奴もいるという例示。

 

今日のメインはポン酢とマヨネーズで味を付けたらちゃんぽんみたいな色になった。

 

文章として公開できるハードルがずれているのかもしれないような気がしないでもないが、今日もまだまだ書くことがあるので先へ進む。

 

寝ぼけた頭でみんなの日記を読んでいたら、「生涯の1冊」という話があった。これっておそらく、自分の人生において最も影響を与えた本というところだと思われる。ふとあるとすれば本ではなく、いや、これだと好きな人持ち上げ過ぎちゃうかとなったため省略。

 

中の考え方みたいな精神の話で言えば、読んできたどんな本も影響しているし、これは書物のジャンルを問わない。ラノベにも影響を受けてきているなぁと思い出したのが、高校時代に読んだ、誰も救われない話。バッドエンド過ぎるがその悲しさが良かった。「ダブル・ブリット」という、妖怪モノみたいなものなのだが、ストーリーほとんど書けるくらい残っている。最近のラノベはほとんど影響ない。転生俺つえ―モノはネバーエンディングストーリーでお腹いっぱいだし。

 

小説も、今は日本の物語のタイミングではないが、むちゃくちゃ読んでいる。ただ、これらはたしかに、この日記を書いていた人が言うようにタイミングによりけりで、人と出逢ったくらいの影響にしかならない。

 

この影響をそれによって行動したという意味にすれば、有川浩さんの「植物図鑑」は、書かれていたレシピ実際に作ったなぁというのはある。ピーマンの胡麻和えだったかな。

 

まぁ僕の中では、実際に行動に寄与されるかは特に問題としていないし、全部僕の中に在って、大事にしている。

 

という感じで、僕は自分が何を知っているかも知らない。これは点検しようとするだけで1日終わるのではないかという危惧と、知らないという領域としていた方が、いざというとき出力しやすいだろうという目論みとがある。

 

真面目に何か知りたい人に対して、こんこんと説明はできそうな気がしている。

ここもタガの話。

 

こう考えていくと、たしかに本は精神的領域を豊かにするが現実とは連動していない。

現実的に連動させる為に本を読むのが迂遠であるというのは確かに分からなくもない意見。

 

では、これを「生涯の1人」にしてみたとする。

自分を受け入れてくれる人は現実的には大事にできる人かもしれないが、その人は果たして自分の行動を変化させるのか。好きな人がどんな人と想定されるかと考えたときの理想像が、自分の生涯像だろうな。

 

僕は影響値に価値を置くから生涯の師匠が何人もできてくる。

自分の行動を変化させるときに、尊敬とか相手に同調しなくてはいけないとかないし。

 

とすれば、最近の「蒼」との出逢いを呈示してくれた某さんも僕の人生にとって重要人物だ。水まくらはほんと寝やすいです。僕も頭に熱が溜まる。あとは、人が僕に費やす時間は無駄だって言ったら、人はきちんと自分の時間を管理しているからそんなこと気にしなくて良いよって言ってくれた某さんには救われた。

 

という感じで、僕は人の価値を、自分に何をしてくれたかとか好意を持ってくれているかではなく、自分がその人物に影響を受けたかどうかにしている。おそらくこういうのって、当人達の、自分にとって有用かどうかみたいな文脈ではない素朴な発信なのだろうなって。

 

ちょっと分かりにくいか。

要は、自分の世界の登場人物とは別の独立した存在として僕を捉えた上での気遣い。

人の本質はこういうところにあるのではという説。裏話みたいなところ。

 

という感じで、僕が離れないで居られる人は、僕を単なる登場人物にするのではなく影響を受けてくれる人なのかな。

 

この視点で観ると現実世界の関係にほとんど意味がないと見えてくるから、あんまりやらない方が良い。やるんだったら自分が留まらない努力をしないといけないし。

 

直近の元恋人さんに、もっと自分を守れよみたいなことを言われたことがあるのだが、これは自己主張の文脈だった。この守りは現実生活では大事だとは思うが、僕が護りたかったのはここではなかった。

 

原始仏典にも自分を護るが出てきて、こちらの方がしっくりする。要は他には流されずに自分で在ることを護りなさいということ。ここにはもちろん努力が含まれている。努力というか、どうでも良さそうなことに時間をかけるなよという外圧から自分を護るという文脈。

 

そうそう。

 

時間と空間の話。

好きな人の文章はこの辺りの観念が真面目で律儀だからとても良い。

 

ではなく、ピラミッドは時間的には未来にあると書いていた某さんは慧眼だと思う。

この時間性はあくまで人類が決めたことだから、宇宙人にとっては前にあったことではなくこれからあることかもしれない。

 

個人的にも異星人の影響は証拠がないだけであるかもしれないという説の方がしっくりくる。ムー大陸とかアトランティスとか。時間の観念が凝り固まり過ぎているから人間では、そういうものが読み取れない。

 

これはいちおうフィクションの話だが、現実の時間の話にしても同じような感じではないかというところ。

 

楽しみを未来に設定するとか悲しみを過去に設定するとか、それぞれを感じられるのは「いま」しかないのに、仮想的に過去と未来を創っている。あくまで頭の中での話よなーって。

 

この現実的に時間が流れているという説もフィクションではないかという疑問が生じている。ここも厳密に考えていくと頭が沸騰してくる案件なのだが、この時間性に囚われると今に生きられないというエックハルトさんの言が実感されてきている。

 

未来の楽しみのために生きれば今は流すものとして蔑ろにされるし、過去の苦しみのために今を生きるのであれば、過去の呪縛から逃れられてない。もっと今どうなのかを問題とした方が良さげ。

 

何かしたいというのは未来に向いた衝動だが、今それができないんだったら、意識のリソースをかける案件でもない。こういう無駄なものに心を傾けるのが自分であるという譲れなさがあるなら何も言わないが、ほんとに自分を生きているのであれば、世界に対して文句言う暇はないのではという感じもする。

 

パートナーが世界の1部でしかないのはとても恐ろしいことだが、結構普通の事象なのだろうなとも思う。

 

うん、子供が世界の1部でしかない世界だもんな。

(体験則)

 

体験を大事するのか思考を大事にするのかということも考えたのだった。

 

体験を大事にするという世界観はとても分かり易いが、体験から普遍的な何かを抽出するのではなくただ体験の中で都合の良いものだけを採り入れるだけだったら、人生ってなんのだろうな。実体験とは無関係なところで思考を積み重ねるのも同じ感じ。

 

他の人ってどういう風に生きているのだろうというのがどんどん分からなくなってくる。

 

てな感じで、今日も楽しく生きました。

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。