森と図書館と宇宙

 

 

きょうも徒然悠々と言葉で宇宙をたゆたう。

 

 

夢が読み物として面白い。笑

 

前半は、どなたか分からない方とこのままの雰囲気で進むとそういうことになるだろうなと思ったら、案の定布団の中で接吻していた。接吻という言葉かなり古臭いのだが僕が読んでいる本では普通の語用。プルーストさんとか。ともあれ、なんで接吻止まりなのだという分析を日中していた。夢の中なのだからもっとぐずぐずに爛れたことをしても良いのではとか。ふと出てきた言葉は、「接吻の先のことは人間のままではできない」だった。いや、そこまで理性吹っ飛ばすような人物ではないが、行為自体がそういうものだという話。ケモノになってスカッとするということなのかもしれないが、僕が具体的にこの衝動に支配された際の原動力は不安感とか独占欲とかの人間的なモノだったような気がしないでもない。

 

後半の方が面白くて、図書館が出てきた。公共施設のようなものではなく、私邸を図書館として開放したという趣で誰かの家の本棚の延長みたいな場所。登場人物は大学教授である叔父さんとか、夢を見るまで思い出すことがなかった、高校の硬式テニス部の同級生の女の子。思い出してみると、全く触れずに終わった高2の時に付き合っていた人とダブルス組んでいた人だったような。

 

一般閲覧者が入れないスペースでは、本を材料にしたアート(建造物)みたいなものが創られつつあって遠目にそれを見ている。あと、出てきた女の子は職員の様で、他にも知らない職員の人が、首に「代読」というプレートをかけてうろついていた。○○君(僕)が読もうとしている本なら面白そうと言われる。で、僕は架空の本でタイトルを忘れたが、ここにならあるかもしれないと探している。結局見つからなかった。

 

この「代読」って、我が夢ながらなんぞやと思ったのだが、実際にあっても面白そう。誰かが読もうとしている本を代わりに読んでその情報を当人に分かり易いようにアウトプットするという仕事。ある意味AIの発展でできそうな気がする。今はネットで買っていると類似の本を紹介してくれるが、これを内容にまで及ぼす。自分の既知と照らし合わせるために本を読む人にとってはとても都合が良いと思われる。バイアスが強固になりそう。というより、こういうのがベイズ確率論っぽい。同じことが積まれることによって、内部の確率が100%に近くなっていく、みたいな。

 

逆に既知ではないものだけをピックアップしてくれるというサービスにもできそうな感じ。僕はこちらだったとふと思ったが、本は自分で既知未知まるっと通したいから却下。

 

時間という費用対効果で言ったら、割と現実的に在りえそうなビジネス。

人ってそもそも情報の正しさをどう判断しているのだろう、というところはあんまり未だに分かっていない。

 

さておき。

 

お昼時間に昨日と同じベンチに行ったら、今日も魔女が居た。昨日よりも魔女っぽくはなかったが、ヒールを脱いでストッキングの足を晒して(普通はそんな所見てないと思う)、ご飯を食べている雰囲気が魔女めいている。ちなみにお弁当箱は僕のみたいな二段重ねではなく、ボトルタイプっぽい。魔女の向こうのベンチには、この時間帯には必ず居るライダースーツの初老の男性。

 

こういう文脈で昼時間の空間を眺めるとだいたい同じ人ばかりだ。この空間の中で、僕を個人として認識している人ってきっと皆無だろうな。毎日同じところで食べている訳ではなく、ミニ空中庭園と、池のある公園をベースにして色んなところで食べているし、きっと真面目に生きている人にはふつうの他人を観測する余白はない。

 

そういえば、出勤中にそろそろ森不足になってきたかなと思ったのだが、森(自然)は情報の図書館だが、本も情報の森だから別に動くか動かないかは任意よなーとなっている。とかいいつつ、さくっと夫婦杉に会いに行く気もする。意識的に生きている人は次に何をするか予測できないというエックハルトさんの言はきっとこういうことで、未来の時点の「いま」で自分が何をするかは、現時点で決められることではない。

 

仕事でも僕はいつか何かのフリーランスになるのではないかという気がしているのだが、いつなにをというのは分からない。確定申告とか調べながら普通にできそうだし。別に現状の会社員に不満ということでもない。そう、逃げ道のための空想ではない。

 

やれやれ。

 

そういえば、この「やれやれ」は村上春樹さんの小説由来。主人公がやたらとやれやれしている。東京奇譚集を読み返したくなった。僕が覚えているのは、名前を奪ってエクスタシーを感じるお猿さんの話くらい。村上さんの短編集って味だけ残ってどういう料理だったのかが残らない。でも、名前に存在としての価値を置くというお猿さんのモノサシはなんとなく分かる。名は体を表すみたいな。

 

ともあれ。

 

僕の日記について(確信がある訳ではない)、とても嬉しい言語化をしてくれた日記があった。こういうのが尊重というか肯定されているということなのだろうなみたいな。

 

飛行機という表現で、「思考の整理学」という本を思い出した。今の教育はグライダー人間ばかり作っていて、自分で飛べる飛行人間にはなれないみたいな言説があったなぁって。自分で考えていると思い込んでいるだけで知識と体験から離れられないのがグライダー人間。自分で飛んでいる訳ではないから、ある意味世界を他責にできる。自分が正しいは良いが、これを他人にとっても正しいとできるとなると、若干他責ちっくになってくる。

 

この本は考えたい人が読むと有用にはなると思う。他にも「煮詰める鍋は煮えない」になぞらえて、アイデアは材料を準備して火にかけて(努力)、放っておく期間が必要だとか。

 

そうして、この文章から、自分を肯定すること、他人を肯定することについて考えていた。肯定は褒めたり甘やかしたり鼓舞したりすることではない。これはあくまで自分の扱い方の話だが、そもそも、褒めたり甘やかしたりしてくれた他人って、ほんとうに自分のことを見てくれていたと言えるだろうかというところから。

 

これってあまりに当たり前として浸透しているからあまり分からないかもしれないが、これらって抽象的にされる限り、下心があるか、対等に見てないペットのような存在としているか。具体性があれば少しは違うような気もする。

 

僕が自分を肯定する手法としては、逐一自分を意識するで事足りる。なるほど、それが嬉しいのか、そんなことを見ているのか、考えているのか、全然世界ってしんどくないよなうむうむ、みたいな。こういう自己肯定は文章に表現されていると思われる。負の方向性でも別に良い。

 

要は、最大限の肯定って、見解がどうか、言葉がどうかではなく、ただただ気にかける、注意を払ってくれているのが読み取れることではないかという話。ネイルの色を変えたことに気付かれたときに肯定を感じるとかの文脈。

 

こういう手法でかつての職場でマネジメントしてみたのだが、まぁまぁ所作が面白かった。尊敬も集まったし。人って見られることを求めている。監視されたいという向きもありそうだが。

 

特に直に言葉のやりとりがあるかの問題でないのは僕に関係している人には分かるのではという感じ。僕は見ているし、見られていることも読んでいます。当然の肯定的所作。

 

だからか、僕は自分に対して頑張れとか思わないし頑張ったよしよしみたいなこともしない。まぁこの感覚は僕が毎日読み物で贅沢しているから、これ以上のご褒美はないということ。どなたさんの文章も当然含まれている。ご褒美だらけだからあえて特別にご褒美を提供しなくも稼働する。

 

別に自己鼓舞、他人への励ましの言葉を否定する訳ではないが、たかが言葉、されど言葉で、言葉に影響を受けるのは意識ではなく無意識の方。頑張るという言葉は、それが使われる以外の時間は頑張っていないというネガティブな世界観が無意識に浸透される。こういう世界観だと、外的状況によってしか自分が切り替わらなくなり、意識的に生きられない。

 

いや、こんなのふつーの世界の生き方だからあえて変える必要もないと思うが、原始仏典でいうところの、快楽に苦しむというのはこういうところにありそうな感じはある。

 

夢の暗示の通り、今日はブックオフと最寄の古書店行動経済学の次の本を探しに行ったのだが見つからなかった。でも、別になんのダメージもない。そのうち見つかるだろうし、それまで読む本はいっぱいあるし。

 

最後。僕は、人の素朴な自己観としてのイメージも気になる。

好きな人は当人の時空間を、暗がりのワンルームみたいに表現していた。思い出で暖を取る。

とても好きな人生像。

 

僕はというと、かつて思い出が通り過ぎるものでしかないみたいな外付けの当たり前の観念の時は、水族館の中の博物館みたいなイメージだった。思い出という瞬間が水族館の中に化石として展示されていて、思い出に浸るときは順路を辿って観覧する。

 

これって、かなりまともな感覚と近かったはずだが、今や周回軌道上で、暗いのは暗いのだが、もはや宇宙空間めいていて、一見なんもないんだよな。ただ、流れ星を手で掬えば時々の過去が再現されるみたいな。森でもなくってきている。

 

これも現実化されないただのイメージだが、こういう自分の世界観が当人の現実を規定しているという説だから、放っておいて現実だけ良くなるなんてことはない。

 

まだまだあるが、ここまででおしまい。

 

では、おやすみなさい。

 

良い夢を。