反射

 

 

もくもくと世界を食べる(特に考えてはいない)。

 

 

この季節は下を向いて歩くと生を全うしたのかしてないのか定かではないセミの亡骸がたくさん落ちている。動物の死には共感できても虫の死には共感できないのは、カタチとして遠いからだろうな。あと、生態系に直接は入ってこない(セミを食べる地域は聞いたことない)。カフカの「変身」も甲虫ではなく犬とか猫だったとしたらほのぼのとした物語になっていたのかも(この時代まで残らなかっただろうけど)。

 

日中は刑事訴訟法をぼちぼち読んでいた。書きたいことではなく理解して欲しいことに凝縮されていて、とても読みやすい。すげー吟味して書いているなという感。刑事訴訟法のシステムは、刑事罰が最終手段で危険物だから最低限で行われないといけないということ前提としている。ちょっと面白くなってきた。この犯罪(非難されるべき行為)の認定って現状かなりの厳密的なものだが、素朴な人は容易く何かを悪認定できるよな。別に素朴に悪と認定して排除することは法に触れない限り禁止はされていないから自由に含まれる行為だろうが。

 

そもそも捜査権限は素朴な一般人にないし、だからこそ民事裁判という最終手段がある。素朴な人同士で争ったら収集がつかないというのが歴史からの結晶なのだが、なんというか、そんな子供みたいな認定されていて良いのか現代人とかは思わなくもない。

 

どうでも良いが、昨日自販機に千円札入れたら返ってこなくて何も買えなかった。引っかかっているのが見えたから家からピンセットを持ってきて回収しようとしたが、すぐ飽きた。

 

さておき。

 

「数学で遊ぼ」という漫画で、理解していることであれば説明できるだろうという台詞があって、理解と言語化について想う。読めることと話せることの間には確かに溝がある。ただ、この話せる(表現できる)って、必ずしも理解しているからという感じでもないような。

 

色んな理由で、分かっているけど話せないとか、分かったと思っていないから話せないとか、無邪気に言語化できないことがある。なんでもかんでも話せる人はとても無邪気な人で、僕もここの文章であれば、あるいは私信であれば表現できるが、あえて現実でそれを語るかとなると、溝の次に壁があるよなぁって。

 

たしかに、自分の中で言語化できるところまで理解しておくことは大事。読むのはとても簡単で、読んだものに対して正誤みたいな判断をすることも簡単だが、それが何故そうなのか、どのようにそうなのかという理解は、当人の経験則とは離れたところにある。

 

これは僕がそのように設定したことによって世界への理解度が高まっただけだから、別に一般論ではない。

 

日記をサーフィンしていたら、芥川さんの「くもの糸」の読書感想文を娘に書かせたら、カンダタが何故蜘蛛を助けたのかというところに焦点があって、圧倒的弱者への慈悲みたいな見解だったとか。お父さんは悪者は結局悪者みたいな見解だったような。どちらも読み取れるとは思う。僕は芥川さんあんまり読んでないが、河童が好きだった気がする(内容全然出てこない)。

 

僕が娘さん寄りで読書感想文を書くのであれば、虫は人間の中の生態系(社会的ヒエラルキー)と関係ない存在だから、素朴な当人として行動できたという説。カンダタの境遇って生まれたときから社会的底辺じゃなかったっけ。全然出てこないが。そういう素朴な善意にお釈迦様は引っかかったのでは。自分しか考えられない境遇の中で他者の存在を慮れるところ。これを人間にも適用できるのではという最後のチャンスだったところに、やはり同類に対しては相対的にしか考えられなかったため、また落ちた。

 

今から読書感想文書くとしたら、最後に必ず「知らんけど。」は入れるだろうな。」

 

もう1人、プロフィールに、人間にとって貴重なのは「言葉と涙」だというフレーズがあって、これもなかなか良きだよなぁと思った。まっさらなキャンバスに言葉を書くことで自分のことがより分かってくるとか、首肯できる。ただ、どこまでなのだろうというのは気になるが。

 

原始仏教で、無我の境地に至るためにはみたいな話があった。

物質としてのかたち(色)、感受作用(受)、表象作用(想)、形成作用(行)、識別作用(識)が我ではないことに気付くこと。これって、ほとんど人間の個性とされていることをカバーされている気がするが、そんなことすら自分ではないとする。たしかになぁ。

 

心穏やかにするためには、これらからは離れないといけない。

じゃあ自分とはなんぞやというと、ろくでもない、じゃない、なんでもないもの。

 

原始仏教の時代に神経学的な脳の作用が知られていたはずはないが、これらは当人の任意で動かせるものではなく、色は遺伝的なものもあるだろうし、その他は、無意識からこれを意識しろよって命令されている感。

 

受、行、識の中で言えば、一番素朴に近いのは、受だが、何に重点をもって感じるかというのも、完全に恣意的にはできない。僕は無意識の檻に常に反抗することで、無意識が省エネしている部分も任意的に見られるようになってきている感はある。知らんけど。

 

ただ、これはあくまで当人の話であって、他人としての人になると、もっとも重いのは「行」だろうな。自分に対してどういう形成作用があるか。

 

この自己感と、他人という概念の峻別は、「AIは人を憎まない」とも繋がっていて、ほんと僕の世界面白過ぎてどうなっているのだ。

 

言葉の間違った扱い方として、透明性のなんとか。人は自分が発した意図通りに読み取るに違いないという世界観。僕はこの理論知らなかったが、人ってこういう風に言葉を扱っているのだろうという体感はあったから、鏡として、当然相手の意図も読もうとするものなのだろうなとてきとーに言葉を発していたら、全然そんなことはなかった。マジで自分の世界しか無い。

 

僕の文章、意図はないが指向性はある。としても見当違いで読み取られたとしても、そう読むのかとなるだけで、特に何もない。読み方はあくまで人の勝手である。

 

仕事だったら、伝えたい情報があるから色々言い換えて、これは駄目か、これなら通じるかと施行する。経営者レベルの人でも、そんなに言葉が読めない人は結構居る。言葉が伝わるかどうかも、正確性ではないし。正確に語ろうとすればするほどわかりにくくなるのが言葉。

 

だとすれば、言葉を尽くせば他人に自分が分かられるというのも逆で。

 

僕は人に自分が分かるはずはないという前提(自分でも分かっていない)があるから、ふわふわ書けるのである。誰か個別の人に対する言葉も規定ではなく暫定で書いている、なんて言っても誰も信じないだろうから、現実世界では表現されない。

 

AIもそうだし、最近仕入れた会計学行動経済学が、人間の合理的行動とはという説明をいっぱいしてくれる。目的には適ってないが、習性には適っているのが素朴な人の合理性。本当にしんどいなら、そこから離れるのがベイズ確率論的な完全合理性だが、人は自分がしんどいことを自分を構築している事象だとしてしまうから、目を離せないだよな。しんどいことを求めてしまう恒常性はドМ理論ではないか。

 

あぁ僕はきっと好きな人と現実生活をする世界線はないが、そんなことは関係なく好きだから、別にドМではない。現実生活をしたところで当人の素朴は把握できないし。これは体感論。無茶して飲み散らかしている姿とか見てもなぁ。介抱はできるが、そこで体感できるのは感触くらいで。

 

僕は飲まない人より飲む人が好ましい。これは、自分の規定値から外れた自分を知っているかどうかという話。自分の本性を知っている人は、コントロールできる可能性があるから良き。ずっと正しい人格の人は、コントロールするという発想すら起こらない。

 

すっきりしたのは、AIの話で、人のバイアスを知ったとき、そのバイアスは自分を検証するためにあることであって、他人を卑下することではないというフレーズ。そうだよなぁ。

 

人のバイアスを否定する前に、自分にそのバイアスがないのかを検証するべき。

いや、義務とまでは言わないが、自分の感情がバイアスという檻だったという認識は自分を自由にする。

 

僕のバイアスのだいたいは誰かのモノサシを真似んでただけで、僕のそのものは、割と色んな一般論がどうでも良いらしいというのが分かってきた。

 

行動経済学でもそんな感じ。

ゲーム理論では、相手の行動を加味した自分の適性な行動を選択するということだが、僕は相手の行動とかどうでも良い。あくまで自分がどうしたいかであって、効用は全然関係ない。効用を前提とした行動論はプロスペクト理論ということだが、くじ引きで自分の行動が左右されるって、あんまり人間的でもないような。

 

はい、ここまで。

はたして、これを言語化する意味が自分の中にあるのかということは気になっているが、僕は効用論者ではないから、これで良いのかも。

 

では、おやすみなさい。

 

よい夢を。